GO ROUND.

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という訳で行ってきましたよ。伊藤剛さん講演会。後輩の応援も兼ねて。遠くまでご足労頂きありがとうございました。

何せ『テヅカ・イズ・デッド』も頑張って2/3くらいまでは駆け込みで読み進めたものの未読了だもので、余り詳しいコメントを残すのはむつかしいのだけど、面白かった。やはりポピュラーカルチャー語りの抑圧の状況はジャンル問わず似たりよったりなところがあるというか。

ともあれ、その辺りの「議論の土台が出来てない/共通言語が出来ていない」ことへの苛立ちが動機になったというか、それはびしばし伝わってきた気はする。ベルント師もよくこぼしていたものだけども。

複製芸術ってのは、生まれた時点で大衆に消費されることが宿命だし、それをマジメにとらえることに一定の層から抵抗があるのは事実だろう。全うな批評と、Blogに象徴的なサブカル語りが混同されている状況も相俟って、その辺りの問題意識ってのがどんどん情報量の中に埋もれて見えなくなっている気がする。多くのひとにわたるメディアな分だけ、誰かがその可能性と不可能性について、ちゃんと考えなくてはいけないと思うのだけど。

そう、可能性と不可能性。何が出来て、何が出来ないか。自己増殖していく大衆芸術というメディアにおいて、今まさに考えなくちゃいけないのはそこだと思う。まず可能性から探らないと不可能性も探れない。それを探るきっかけとして、こういう本は絶対必要だ。

因みに僕は、テヅカがしんだ直後、近代美術館のテヅカ展会場で親から鉄腕アトムを一式買い与えられ、マンガというメディアを知った。僕が気づいたときにはテヅカはしんでいて、そしてテヅカの権威化は(昭和の歴史化と共に)加速しようとしていたし、事実僕の中でも権威化していった。複製芸術ってのは、商業主義のせいかは知らないけど、何かを権威化しようとする方向に動く。ポストモダニズムモダニズム、という発言に頷き、東のデータベース化する社会にポストモダンを見出し強調する身振りに「?」と思うのはそういうところからでもある。

んーまとまらないな。まぁいいや。これは批評じゃないですごめんなさい。とにかく、刺激的でした、ありがとうございました。とりあえず読了しなきゃ。