アラシノさん。

嵐が今夜もやってくる。なぜかというと、アラシノさんが呼んだからだ。まわりのみんなは、そのことをよく知っている。

アラシノさんは、このあたりではよく知られている。近所に長く住んでいるし、ここいらでは「ちょっとした」存在だ。眼光は他の誰よりも鋭く、体も態度も大きい。アラシノさんに逆らうと、ここいらに住むのは、ちょっと難しくなる。その腕っ節や存在感もそうだが、何より、アラシノさんは、彼の気分で、天気を呼んでしまうからだ。

アラシノさんの機嫌がいいと、間違いなく天気は、晴れになる。ある冬なんて、あまりにご機嫌すぎて、そのおかげで雪が降らず暖冬になり、冬季オリンピックの開催が危ぶまれた。またある6月にもいいことが続き(ガールフレンドができたのが、そのもっとも大きな理由なわけだが)その年は空梅雨になり、世界は水不足にあえぐことになった。

そしてアラシノさんの機嫌が損なわれると、嵐がやってくる。時々は、ひょうがふったり、あられがふったりする。だけど、いちばん機嫌が悪いと、嵐が訪れる。ひと夏に、5個も6個も嵐を呼んだこともある。おかげでたくさんの子供が、雨と嵐だらけの夏休みに、涙を流すことになった。

だから、アラシノさんのまわりのみんなは、アラシノさんのことを、まるで腫れものをさわるかのように扱う。何せ、機嫌を損なうと、自分の暮らしに影響してしまう。いつしか、誰も、アラシノさんに本音を語らなくなってしまった。

アラシノさんも、そのことは薄々かんづいていたが、何も言わなかった。だって、それはしようのないことなのだ、とアラシノさんは思った。ガールフレンドも、アラシノさんのもとを去って行った。去って行ったあとは、10日間、雨が続いた。終わる予感のない、しんしんとした静かな雨だった。

「あなたといるとね」と彼女は言った。「息苦しくなるの。あなたを傷つけるわけにはいかないじゃない? けどね、一方で、傷つけずにはいられなくなるときがあるのよ」アラシノさんは、黙って彼女からの別れを受け入れた。それは、アラシノさんが、アラシノさんである以上、しようのないことなのだ。こうして、毎年、嵐は町にやってくる。

今日も嵐がやってくる。季節外れの嵐だ。今年はアラシノさんの体調も不安定で、おかげで気候も不安定だった。春の到来は遅く、変な時期に雪も降った。しかし、これもまた、アラシノさんにはどうしようもないことだった。雪を降らしてしまうから雪は降るし、雨が降ってしまうから降ってしまう。本当は、アラシノさんだって、春の到来を祝いたかった。しかし、どうしようもなく、アラシノさんは嵐を呼んでしまったのだ。

嵐に備えて、みんなは移動を始めていた。みんな、口では何も言わなかったけど、アラシノさんに疎ましげな視線を送った。しかし、とアラシノさんは思う。これはしようのないことなのだ。

嵐にいちばんうんざりしているのは、他でもない、アラシノさん自身だった。嵐を呼んでしまう自分の怒りや苦しみや虚無感が、悲しくて仕方なかった。自分は空っぽだ、とアラシノさんは思う。何度も呼んだ嵐は、彼の元から色々なものを押し流していった。もう何も残ってはいない。

しかし生き残るためには、アラシノさんも移動しなければならない。アラシノさんは、イイダさんの部屋に入り込んだ。あら、あーちゃん、どうしたの? とイイダさんは言った。この部屋にやってくるときは、いつもこんな具合だ。イイダさんはとても若くて綺麗で、明らかに自分とは不相応だとアラシノさんは思うが、もう色んな人のところに渡り歩くのも疲れてしまった。

アラシノさんは黙って、ベッドに入った。ほどなくして、嵐が町にやってきた。木造アパートは、強い風と打ちつける雨で、きしみ、揺れ続ける。その音をきいて、アラシノさんは、嵐を呼んだことを後悔した。嵐なんて、二度とやってこなければいいのに、と、嵐の度に思うのだ。どうして、悲しいことを、繰り返してしまうのだろうか。

イイダさんがベッドにやってきた。彼女も、強い嵐におびえているようだった。こわいね、と彼女は独り言を言った。彼女はアラシノさんが嵐を呼んだことを知らない。ベッドに入ると、イイダさんは、アラシノさんのことを、きゅっと抱きしめた。その肩は、小さく震えていた。こわいね、けど、うちにきていれば、だいじょうぶだからね、あーちゃん。

アラシノさんは、ベッドでうたたねしていた。気が付いたら、イイダさんは、ベッドからいなくなっていた。嵐は、いつのまに過ぎ去っているようだ。キッチンの方から光がもれていて、アラシノさんは、ベッドから這い出て、キッチンへと向かった。

気づかれたか、とイイダさんは言った。スーパーが閉まる前にお買いものにいったの、と彼女は言った。そしたら、君の大好きなお刺身が大安売りだったの。最初からこれを狙ってうちにきたんじゃない? 彼女は笑って、まぐろの赤身のかけらを床に落とした。もちろん、次の瞬間にアラシノさんが胃袋におさめる。にゃあ、とアラシノさんが鳴くと、続きは明日ね、今日はもう遅いから、と彼女は笑って言った。ガスレンジの鍋からは、作りたてのみそ汁の香りがした。

静かになった夜に、アラシノさんとイイダさんは丸くなって、寄り添ってベッドで眠った。久々にいい夢がみれそうだ、と、アラシノさんは思った。おまけに、明日の朝ごはんには、美味しいお刺身が待っている。

嵐はもう過ぎた。明日の天気は、快晴だろうね。アラシノさん。