春と修羅(5)。

id:assa:20050929の続き。

春と修羅、序文。

http://why.kenji.ne.jp/haruto/100jo.html

横書きにリンクしたけど、縦書きのが良いと思います。

この序が語ってくれることは、強いてシンプルに言うなら、イメージとして詩を捉えるのが大事てことである。書くのは簡単だけどこれが結構むつかしい。人間抽象性よりも具体性を求めちゃうからねぇ。

まぁさておき、賢治一流のレトリックの嵐、て感じだけど、とりあえず読むと、一行一行まともにこれを査読して解読することなんて無謀な試みということが分かるでしょう。てことで大体の雰囲気でエッセンスだけ抽出してみる。このアバウトさが重要だと思う。


(A)序は、春と修羅が賢治の主観で書かれた「心象スケッチ」であると述べている。
(B)同時に、賢治はその「心象のスケッチ」が、ある程度「他者」と共有されるものであると考えている。
(C)同時に、賢治はその「心象のスケッチ」が時間に対しては普遍ではなく、時間を経たときに、その意味を変容させるかもしれない、ある程度刹那的なものであると感じている。
(D)「時間」という概念は広く抽象的なものと捉えられている。それは一瞬の時間の経過かもしれないし、或いは「二千年」とかいう具体的な時間かもしれない。また、未来だけに目を向けて書いてるのではなく、過去にも言及しているのが特徴的。

ここからなんとなく導き出される鍵は

・これらの詩篇において、あらゆる文章の一人称は賢治を示す。-(A)より。

詩篇に描かれる風景、光景は「心象の」風景である。-(A)より。

詩篇の描く風景はある程度読者に「共有される」。ということは、彼がある風景を描いた場合、その風景が具体的な「どこそこの情景」ではなく、もっと抽象的な、まさしく「心象風景」とでも言うべきものを賢治は想定して書いている。*1-(B)(C)より。

詩篇の描く風景は、それを受け取る時により変容するものである。それは、時間(刹那でも二千年でも有り得る時間感覚)の経過に起因する受け取る側の感覚の変容に拠る。-(D)より。

・テキストは普遍性をある程度目指しつつも、そのような時間感覚の変容に抗おうとしない。そしてその変容に抗わないという傾向は、読者のみならず、書いた賢治自身にとっても同様である。-(C)より。

抽象的なものを抽象的な言葉で理屈化して解釈しようとしてるので相当分かりづらいけど、あえてチープに言語化しようとするならこんな感じかな。で、このテキストの持ってるこうゆう考え方と、何度も引用した『農民芸術概論綱要』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html)て相当リンクしてるのよね。春と修羅の細部の思想の変化はあっても、こういう根本的な思想的な部分(特に時間空間感覚と、自分語り思想)は変わっていない。(春と修羅を書いて2年後のテキストだし、そういう精神的部分てのはそうそう変わるもんじゃない。)

と言う訳で、やっとカギを得て、春と修羅を「読む」準備ができた。と思ったら、もうこんな時間じゃないか。まさしく電燈の瞬きの如く時間は過ぎ行くものよのう。

*1:岩手の山奥の具体的情景を「みんな」が把握するのは不可能だけど、抽象的にその情景を「みんな」がテキストからイメージするのは可能である。そしてその抽象的イメージとしての情景は、イメージである以上、時間や空間という具体的な存在に拘束されるものではない。