春と修羅(4)。

id:assa:20050925の続き。ぐだぐだ考えてることを言語化してる時間がないのでサクっと。後で詳細にぐだぐだ書くかも。ぐだぐだ。


池澤夏樹が『春と修羅』の解釈について「春=世界/修羅=賢治」と規定したらしいが、ちょいそれは正確でないと思う。前回書いたような理由で。根拠はまた後で。春と修羅初版の序論と「農民芸術概論綱要」が一番大きなヒントとなる。

・けど作曲者の信長貴富は基本的に「池澤思想」(勝手に名付けた)に則って曲を書いている。宮澤賢治の仏教観というスパイスを効かせながら。春という主題と修羅という主題との対立をぶつけて解決(回帰?)へと向かう極めて西洋音楽的なロジックで曲は構成されてる。これは「音楽家が賢治作品を解釈する」に当たっては極めて明快かつ有効なロジックと言えるだろう。だけど、それはあくまで「信長が賢治の作品をそのように切り取った」のであって、それが宮澤賢治の描いたものとイコールであるとは限らない。たぶん、僕がひっかかっているのはその辺りが根本原因。いわば、「言葉にひっかかりすぎてた」のだ。

・だから(と言ってはなんだけど)僕らは、作詩者の解釈で歌うよりかは、作曲者の解釈に近づけて曲を演奏するべきなんだろう。別の言い方をすれば、信長作品を演奏する以上は、信長貴富氏の解釈を、テキストの元来持ちうる解釈よりも重視するべきだろうなぁということだ。

(実際合唱の作曲者てのは、作曲の都合上詩の一部をカットするてのをよくやる。切ることであえて他のことばを主題として強調したい場合や、歌に乗せるのがむつかしいフレーズだったりする場合、音響的な効果を狙う場合もある。或いは単に気に入らないだけかもしれないけど。春と修羅では作者による詩のカットはないけど、主題として強調するために、あるフレーズのコピー&ペーストが多様され、信長解釈の強化のツールとして効果的に配されてる。)

僕らが歌うのは、「宮澤賢治の世界」ではなく、「信長貴富氏の切り取った宮澤賢治の世界」だ。

・だけど、そのことが春と修羅というテキストについて他の解釈でアプローチする必要はないという言い訳にはならない気がする。春と修羅というテキストを信長氏が解釈することで一体何が強調され、何が切り離され、結果何が産み落とされたか。たぶん僕にはそれが十分理解できてない。という事実に僕は気付けずにいた。だから混乱してたのだろう。

・というか、幾人ものひとが難解と言ってるこのテキストを完全な形で理解することなんて不可能だろう。だからこそ、テキストに近づいてくべきなんだと思う。それこそ岡倉天心の言う、不完全なものから完全なものを見出す努力、それが芸術に対する姿勢として必要なのだ。たぶん。

そんなとこかな。結局長文。これだから秋の夜ってやつは。