春と修羅(2)。

声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる

宮澤賢治『農民芸術概論綱要』http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html

とまぁ、(1)で色々調べ書いてて一番思うのは、宮澤賢治という人間(あえて作家とは書かない)は、実になんというか「矛盾」を抱えた人間だったんだ、てことだろうか。

彼は家業を嫌っていた、にも関わらず盛岡農学校助教授就任の誘いを断り、花巻農学校教諭職も30の若さで辞すことになる。彼はその間、家業を手伝ったり、家業で得た「財」(彼が最も嫌っていた「農民から搾取した」もの)で生計を立てざるをえなかった。

彼は父親と対立していた、にも関わらず父親の援助を受けざるをえなかった。また、父親の日蓮宗への帰依を断念することはなかった。対立しながら父親を切り離さず、融和を求めた。(自身の遺言をきっかけに、結局彼は父親の日蓮宗帰依という野望を果たすことになる訳だけども。)

上京を繰返したり、或いは帰郷したり、実家に戻ったり独り暮らしをはじめ農民に思想を説いたり、生き様も決して一貫してはいない。芸術に対する思想は壮大で浪漫溢れるものだったが、それを地道に、明日の生活もしれない(当時の東北地方の農村の状況といったら不作の連続だったことだろう。)農民に説くという姿も、どうも不可思議に映る。自身がずっと農民として生きたならともかく、である。彼は生涯農民ではなく、むしろ「農民から搾取された財で生きた」存在だった。

宗教にしても、実は彼は後年、自身が所属してた国柱会を批判したという。けど彼は生涯会員だったし、その思想の影響から逃れることはできなかった。国粋思想に傾倒したはずが、社会主義的な思想の影響にあるとの偏見を当局から受けるくらいに、彼の考える思想と宗教と世間の受ける印象のギャップが確かに存在した。

……。……。

人間なんざ矛盾を抱えたイキモノだ、なんて言ってしまえばそれまでだけど、僕が先ず思ったのは、その「矛盾」を、つまり「理想とする己」と「現実の自身の生活」の乖離を、離れた点と点を線で結ぶようにつなぐ術が、彼にとっての「芸術」とゆう概念に基づく創作だったんじゃないか、てことだ。

彼の芸術思想の集大成とも言える『農民芸術概論綱要』は、ロマンチックなことばを乱暴に要約するなら「生活に根付いた芸術こそ真の芸術である。」という思想だった。彼が日々1人暮らし生活しながら、農夫になりきれない農夫の姿で創作活動にふけったのは、まさしくこの思想が根底にあってこそのことだとなんとなく思う。いわば「自身は農民芸術の実践者」だとこの綱要で宣言することで、自身の矛盾を抱える状況を肯定しようとしたのだとも考えられる。恐らく、(日蓮の思想に嵌まり込むほどに)彼は潔癖で真面目なロマンチストだった。そんな潔癖な彼の「自己肯定」の術が彼にとっての芸術概念だったのだ。(これは、今現在、宮澤賢治好きを公言し自分語りやポエム書きを行っている人が、ある一定の層で存在することと大きく関連すると思う。思うだけ。)

自己の矛盾を、現状を「思想」で肯定する。その思想を裏付けるものが「芸術」であり、「創作」である。近代芸術思想の発想てのはフツウ逆の手順で構成されるもので、芸術作品が先にあって、それを裏付ける存在として思想体系(大塚風に言えば世界観が)が存在する。前者と後者、この差はとても大きい。卵が先か、鶏が先か。

恐らくそこまで突っ込まないと、なかなか宮澤賢治という人間に「作品」を通じて近づくことはできないだろう。彼は決して作家的な生き方をした「作家」ではないからだ。他の作家と同列に並べて作家論で語ろうとすると、下手すると破綻する気がする。

何度も『春と修羅』を読んで違和感を感じるのは、そしてやはり惹かれて止まないのは、その惹かれる理由を言語化できないのは、そして歌いきれないのは、その辺りに起因するような気がしている。