春と修羅(1)。

春と修羅』を歌うことになった。宮澤賢治詩。信長貴富作曲。

とかなんとか、昔木下センセの授業で「雨ニモマケズ」を材料に色々話を聞いたことがあって、何となくひっかかってた部分もあって、サクっと宮澤賢治について調べてみた。授業はアートマネージメントというやつで、眠気と人数の多さに負けて2回くらいしか出られず放棄したんだけど、そのうちの2回の内容は元々はメモ帳の走り書きだった「雨ニモマケズ」がどのように彼の没後活字となり、その活字ひとつ、空白ひとつ、誤字ひとつが整理され、新たな意味を与えられていったか、というものだったと記憶している。詩についての多くは木下センセの授業から学んだ。いちばん熱心に聴いたのは岡倉天心の授業のときだったか。

作家と言葉、近代と作品、そして近代芸術作品の持つ「世界と作家」の対立という構図、作家という「人間像」の確立。何となく久々にこゆことをぶらぶら考えてみたくなった。以下走り書きが続く。

最初に言っておくと、僕が詩(に限らず)に抱く根本の思想というのは、岡倉天心『茶の本』の中にある下の記述に集約される。

「真の美は、不完全を心の中で完全にする人だけが発見することが出来る。」(『茶の本』p.65 講談社学芸文庫)

と言うわけで、整理のために。どうも歌いながらひっかかってる部分が棘のようにずっとあるので、その棘の正体を洗い出したいて感じ。大体はこゆのは歌ううちにとれるんだけどね。今回はなかなかとれない。自分の中に、言葉が歌に落ちてこない。苦戦の痕と思って頂ければ結構であります。

春と修羅宮澤賢治作。春と修羅は、一編の詩であると同時に、賢治が生前に刊行した唯一の詩集の題名。(もう1個の出版物は「注文の多い料理店」だったらしい。)賢治は生年1896年。初版は1924年。28歳で刊行、ということになる。詩人宮澤賢治、というが、実は評価されるようになったのは没後。春と修羅自費出版。「全く評価されず」という状況だったという。

父親は質屋を営み財を為していた。「貧乏人から利息をとる」という家業を嫌っていた賢治も、結局は父親の援助を受ける形で農学校を24歳で研究生として卒業。教員になる話を断り、家業を手伝いながら暮らしていた。

中学時代(15〜17歳くらい)より法華経に興味を抱く。一時期上京した際に国粋的な雰囲気のある法華経国柱会」(ウヨクの団体みたいな名前だな)に強い影響を受けみずからも熱心に布教を行った。生涯国柱会会員だったという。その後すぐに妹の病気のために盛岡に帰ることになる。妹は賢治26歳のとき死去。詩集『春と修羅』には妹の死を悼む詩も収録されている。その時期から花巻農学校の教諭に。

30歳のとき、農学校依願退職。以降は再び父親の援助を受けながら、「羅須地人協会」という農業普及活動団体を設立。農民芸術の必要性を説く。創作活動も同時に行うが、彼の膨大な作品群からすると当時発表されたものはごく一部。発表媒体は雑誌と同人誌が主だった。余談だが、羅須地人協会は社会主義運動との関連を疑われたこともあったそうな。国粋法華経の信者だったてのにね。皮肉。日常作業を新たな芸術の高みにもっていくという思想に、当時の農民の反応も冷ややかだったという。

父親は仏教徒ではあったが、日蓮宗の人間ではなかった。賢治とは、進路・家業云々とか宗教的ななんやかんやで感情的な対立があったらしい。上京も度々、時々思い出すかのように父親に無断で行われた。

病歴が点々とある。18歳はチフスかもしれない高熱。32歳より肺炎。その後は発病と小康状態を繰り返すも、37歳で結核により死去。決して丈夫な人間ではなかったようである。かの有名な「雨ニモマケズ」が書かれたのは肺炎闘病中の35歳の秋。

とまぁ、色々調べ書いてて一番思うのは、宮澤賢治という人間(あえて作家とは書かない)は、実になんというか「矛盾」を抱えた人間だったんだ、てことだろうか。続きや理由は次回てことで。おやすみなさい。