トレイン・ロック・フィスティバル〜アイ無き世界の中心でAの警笛を鳴らす電車。

『電車男』-新潮社、読了。

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Aquarius/7075/trainman.html

http://www.asahi.com/tech/apc/040709.html

今更ながら。ですが、いつかはネットで読もうと思いつつもなかなか読まずにいたのだけど、持ってるというひとがいたので借りて読んでみた。まぁ借りないと読まなかったんだろうなぁ。

断片的に様々な伏線が後の展開に絡むその流れは読み物として見事としか言いようがない。ムダな伏線がひとつもない上に、その伏線もじつに巧くチラリズムを駆使して書かれてる。実はこの「物語」は読者の俯瞰(毒男たち)の視点を利用した純愛ミステリーなんじゃなかろうか。なんてことを思ってみたりもした。ひとつの断片的な情報に踊らされる電車男と無数の毒男たち。彼らはエルメスという女性をリアルタイムに「推理」することを先ず楽しんでいる。そして「正答」へと「電車」を導こうとする。最終的にその「正答」は「電車」本人により導き出される訳だけども、ここで「推理」そしてする数多くの「毒男」はその「正答」を導き出した「物語」の「参加者」、電車をエスコートした「アドバイザ」、若しくは「目撃者」となる訳だ。伏線を推理し、そして物語の精製プロセスに参加する、という、物語創作というゲームの魅力が詰まっている。そのゲーム感覚が、多くの欲望とともに見事に生々しく伝わってくる。だからこそここまで多くの人間に騒がれたのだろう。

読んでて思い出したのが、岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』-角川書店。映画の原作となったこの文章は、岩井の公式サイトにおいて掲示板形式で執筆された。岩井が書き込み、その岩井の書き込みに対し閲覧者は参加することを許され、物語を拡大していく、という趣向だったと思う。あるネット掲示板(チャットだったっけ?)にてひとりの少年が独白をはじめ、その断片的な情報から物語が構築され、多くの「参加者」の「推理」を呼び、「正答」が導きだされるという構図がよく『電車男』と似ている。

但し、個人的な感想を言わせてもらうと、スレッド形式の小説として読んだ場合、『リリイ・シュシュ』よりも遥かに『電車男』は優れている。リリイ・シュシュは(確か)途中で岩井以外の参加が遮断され、ひたすらに主人公が自らの行動を独白するという流れでフィナーレを迎える。つまり作者の恣意、権力の強いネット小説だった。比べて、『電車男』は2ch発という特性上、常に「参加」することが「読者」に求められている。逆に「読者」の「参加」なくしてこのドラマツルギーは有り得なかった。そして、その「参加」を助長したのが「時間(リアルタイム)」感覚だった。てとこだろう。その時間を操作した影の作者としての権力、それが電車男だった。とかそんな感じ。

ともあれ、こんな「物語」を生んだという一種の偶然性の蓄積が生み出したキセキに対して、ただただ、ひとりのモノカキもどきとしてひれ伏すしかないなと思う。(そして基本的には無料なWEBコンテンツであるそれを商売にしてしまう出版社のしたたかさにただ両の手を挙げてしまう)。逆に、仮にこの内容がフィクションだったとしたら、これは恐ろしく綿密に練られたよく出来た恋愛ミステリ小説だと思う。女性という、オトコにとって最大の謎な存在を読み解くミステリ小説だ。まぁ、なんつか純粋に、これおもろいです。色んな意味合いで。おめでとう、おめでとう、全ての毒男に、ありがとう。