果てしない/闇の向こうに/手が届く?

読了したの大分前だけど。『アフターダーク』-村上春樹

ふと思ったのは、春樹と三人称の関係性について。ずっとそれで書いてきたからてのもあるけど、春樹には基本的に一人称(僕/私)がよく似合う、とされる。今まで多く書いた文章の中で、三人称の文章は殆どなく、一人称の文章が圧倒的に多い。特に長編フィクションにおいては、三人称のみで書かれた文章は、ある文章が発売されるまででてこなかった。

三人称の文章に本格的に初チャレンジしたある文章、てのが、地震連作(読み返そうかな。)『神のこどもたちはみな踊る』。なかなかの好作だけど、あれは、短編連作という形が巧くはまったからこそ活きた三人称だった、そんな感じがする。そして実際のとこ、あれは複数の物語の複数の主観を組み合わせるためにあえて三人称を用いたのであって、どちらかと言うと便宜的な使用だったように思える。その証拠に、神のこどもの各短編は、大体が一人称に置きかえられる。

で、神のこどもの次に発表された前作『海辺のカフカ』。これもまた一人称「僕」を中心とした冒険話だった。但し、この文章の中では一人称のエピソード(僕の話)と三人称のエピソード(ナカタさんの話)が交互に織り交ぜられている。そして、面白いことに、この小説においては、三人称の文章は一人称の文章に変換できない。その中に複数の主人公が並存するからだ。

もうひとつカフカで注目すべきは、「カラス」と呼ばれる俯瞰的存在である。「カラス」は一人称(僕)の物語の中で登場し、「君は……」と「僕」に問い掛ける。この正体は、まぁ文章を読めば分かってくるのだけども、ネタバレはしたくないのでここでは置いておく。ただ、確認しておきたいのは、村上春樹の『海辺のカフカ』は、「僕」を中心とする一人称の文章と、所謂「神の視点」で描かれた複数の主人公が存在する三人称の文章、そして一人称のエピソードの中にある「カラス」という俯瞰的存在が語る文章で構成されている、ということ。

そんなこんなで話はようやく最新作に戻る『アフターダーク』。これは村上春樹史上初、と言って良いであろう、一人称には変換できない「純然たる三人称」で構成された文章である。正確には2種類の三人称の文章で構成されている。ひとつは、三人称のみで構成されたある少女と青年のエピソードであり、ひとつは眠り続ける女性と眠らない男性を巡るエピソード。そしてそのふたつのエピソードを横断する術として「俯瞰」が用いられている。「神の視点」がふたつのエピソードを往復し、話をひとつに繋ぐ。これは恐らく、一人称に代わる存在としてあるという気が読んでいてする。僕と言う自分を語る代わりに、俯瞰を持ち出したのだ。そしてその伏線は前作カフカの「カラス」にあったと思う。但し、その俯瞰は主観的な「カラス」に対し客観的で、物語の登場人物達に介入することを許されていない。春樹は「カラス」から主観を取り除き、俯瞰という視点のみを残し、適用した。イメージとしてはなんとなくそんな感じな気がする。

なんて、何処かに書かれたようなこと長々と書いてしまったけども、ようやくここまで辿り付いた。えーと、正直な感想、この挑戦はうまく行ってないと思う。やっぱり、何処か中途半端なのだ。何故って、春樹は一生懸命俯瞰で文章を書こうとしてるのに、俯瞰に全くなりきれていないからだ。俯瞰を擬人化してしまった辺りが象徴的だ。俯瞰は「神の視点」であるべきなのに、結局「僕の視点」と混濁してしまっている。これをすっぱり分けることができないと、綺麗に三人称の文章で春樹独特の世界観を描くことは難しいと思う。問題は、割り切れてないってことだ。割り切らないで道具として三人称を使ってしまうから、なんか読んでてピントが合ってこないのだ。鳥目、てことばがあるけど、ほんと真っ暗で余り風景見えてこない。アフターダークどころか、ダンスダンスダンスインザダークて感じだ。どんなだ?

というわけです。消化不良。やっぱ春樹には、一人称がよく似合う。というか、結局、一人称しか書けないんじゃないか?なんかその事実に対して悪あがきしてるような印象も受けたりなんかしてどうにもこうにも煮え切らない。なんか切ないすよそゆの。むー。