断片3.5。

断片3。気付けば中身は空っぽだった。ごめんなさい忘れて下さい。

「有馬の人格の出所はどうやって説明すればいいのか」

つか人格て血で決まるのか?て思うけども。いや、決まると思う。ある程度は。こないだのあるあるスペシャルの血液型特集が周囲で割に話題になってたのを見ると、結構血と人格の関係性みたいなのに潜在的に人間は意識的なのかもしれないなぁ、と。それはこじつけだけども。

ともあれ家庭環境、て見ると確実に性格への影響はあるですね。ない訳ないじゃん。最も身近な他人が居る場所だもんさ家庭。その他人との折り合いつける仮定で、仮面持つ、つか、良い子演じる的な役回り引き受ける人間は確かにいる。その反面好き放題やるやつもいて、その間で家庭という社会はバランスとっている訳ですよ。たぶん。(別段誰の話をしてる訳でもない。)

元々生得的な性格みたいなものがあるとして、その性格みたいなものはたぶん家庭の中でまず基礎を築かれる。親の背中見て育つからまずそこで生得的な性格がより具体的な性格に固定化する。固定化した性格は今度は社会(保育園・幼稚園・学校)で明確に相対化され区別される。あの子はこゆ子だこの子はこゆ子だ。と。そんなこんなでコミュニケーションの数が増えていく分だけ「自分はこゆやつだ」という自意識が肥大化してく。ピークはやっぱり思春期なんじゃないですかね。20代ももうすぐ半ばで未だにピークです。成長遅いから。てひともいるんだろうけど。(別段誰の話をしてる訳でもない。)

で、まぁ有馬の場合はというと、「いいこにならなきゃいけない」という Adapted Child 的傾向の異常な強さゆえ、きっと成長の過程でそれはそれは多くの挿話があるはずで、その挿話の総和導き出したらそれはそれは膨大な数の「肥大化」の兆候があると思うですよ。それをいちいち描写してたら月刊連載成り立たないし、別に読者は精神医学者でも臨床心理士でもないからそれをこまめに分析してる訳にもいかない。読者にできるのは、隙間隙間の断片を覗くことによりただ想像することくらいだったりする。けどこの想像てのが物語の流れに適うものであればあるほど想像力は別の伏線と連なり、より深いものへとなってく。想像力は物語に参加し、物語は想像力の飛躍を助ける。つ訳で、比喩的に言うなら、有馬の自我形成に対する「何故?」の答えは読者自身の中にある、といっちゃうしかないんでなかろうか。と思う訳であります。

結局は、その過程で、読者の自我はきっと固定化してく訳ね。少女マンガて、(主に小学〜高校生女子の)成長のためのツールなんだなぁと最近改めて思ったですよ。あーまとまらない……。