断片2。

http://d.hatena.ne.jp/assa/20040410の続き。相変わらずネタばれ注意。カレカノ彼氏彼女の事情白泉社刊。

「けれども、漫画でも文学でも、そのリアリティの有無の境界線がはっきりしないのは作品としてどうなのでしょうか?」

物語、という概念をどう捉えるかによって変わってきてまう気はするけど。極めて一般的に「物語」てのを捕らえた場合の話ね。まぁひとつ或いは複数のテーマ(或いはキャラクター)を起承転結で並べて描く、てやつ。

先ず誤解ないように言って置くと、フィクションの中のリアリティと現実の中のリアリティて異質なモノと思うのよ。背景としてる世界観(無意識的に語彙が大塚英志的だな)からして違うんだから当然の話でありまして。

そもそも現実の世界においては個々人の次元においてでさえ何がリアルに感じて何がそうでないて感じるかて違う訳ですよ。けどそのフィクションを共有してる人の間では同じ世界観を共有することによって擬似なリアル(=フィクションのなかのリアル)を体感できる訳ですよ。僕の中でこの「共有」て感覚がキー。

ところが読者(メディアの受け手)の間での感覚の違いてのは当然またこれも個々人で変わってくる訳で。殴るシーンに何らかの共感抱く人間もいれば会議中にこそり手を繋ぐシーンのモノローグに共感するひともいて、中には手の甲にナイフ突き刺すシーンに感慨を抱くひともいる。だけどそんな作品の細部なんて実のとこ「物語」を描くために並びたてられた断片でしかない訳ですよ。

重要なのは断片自体ではなく、断片を並べたことで生まれる全体像みたいなものと思う。その全体像が明確かどうかの尺度が「アリ」かどうか、てことだと思うのだけども。あえて言語化するならね。結構この文章書くの苦労してるし言い当ててる自信はない。第一、『おたくの精神史』読了したばかりなせいだと思うけど、大塚英志の影響受け過ぎだ。(つか、ここで大塚英志のアンチテーゼ的な持論かざすと議論がこんがらがってくに決まってる。で、その「全体像」への「断片」の整合性がそのフィクションにおけるリアリティだと思うのですよ。

僕なんかは、例えば「その日"彼氏""彼女"になりました。」てのは読んでてこっぱずかしさが先行するので直視できない部分が大きいのだけど(笑うとこです)、有馬と雪野の関係性のリアリティという観点で見れば(3話の直後てこともあって)殴るシーンと連なるものがあると思う。そこへ来ると後半の有馬の内面のどろどろはビミョウに(実にビミョウなんだけども)ずれてる気がする。それが違和感を生むのかもなぁ、と。今思うと。つまりはそんなことです。「アリ」てのは。


いや、この辺りまとまった文章書きたいんだけどね。物語論やってください、て昔ゼミのセンセイからリクエストされたこともあったし。特に「断片」とその断片の持つフラジリティ、物語の物語性から切り離された曖昧さをいかに語るか。これ一生のテーマです。大塚英志物語論が「殺した部分」、そして東浩紀が「萌え」を語ることによって語った部分。けど断片を活かすは「萌え」だけじゃない。絶対そうだ、と信じて病まないのですよ僕は。考え全然固まってないけどね。まだまだ思い月。