なんとなく二次創作。

二次創作系少女マンガ2冊読了。『インストール』-みづき水脈 と『新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd (1)』-林ふみの。原作を殆どまんまなぞった前者と、原作のゲーム版(のスジはよく知らないのだけども)を裏話的に語るという後者で、対照的な組み合わせ。

前者は完全に映画宣伝目的、なのかは知らないけど紹介本の域をでていない。多少のアレンジはあるのだけど、結局は原作の文章の持つ色気とか殆ど消え去ってしまってる。つか原作をなぞった文章が説明的に聞え説得力が失せてる。描くなら別物と割り切って描かないとつまらないだけだろー、と思わなくはない。これだったら「成長する思春期」という同テーマを描くパラキスでも読んだ方が100倍色気あるし、フィクションとして説得力があるさね。

後者はと言うとどこそこで言われてるよに同人的な色合いから抜け出てない。けど隙間隙間に、ちょっと唸らせるシーンがあって、そこそこ読ませてくれる感じ。これが破綻なく長く続いたらそれなりの愉しみは与えてくれそうだ。もっとも、その「それなり」感を超えてくれるだろうか、とかなんとか考えてみると、貞本エヴァを読んだときのようなあの独特な手触りがないことに思い当たって、一抹の寂しさが。


つまり総括して思うのだけど、それはアリなのか?て思うギリギリの境界線を前後して結局作品をモノにしてしまう実力が二次創作には必須なのかもしれない。て当たり前な話か。キシダンによる『服部のパロディなんてそんなギリギリ感に溢れててコンビニでポスターみてて楽しいすな。ただ成功してるかどうか、て観点からすると、あれは完全に確信犯で余りに付きぬけてやっちゃってるがためにむしろ反則、て気はしなくもない。やるなら車谷のよに「自己表現やってるんだぜー」て文脈でやってくれないとおもひろくないんです僕の好みからすれば。その辺りは、南Q太やまだないとを「岡崎フォロワー的」な扱いで評する大塚英志への反論としてとっておこう。他人が切開いた道を自分の道として闊歩するのは、時として自分で道を切り開くより、ずっとキツく難しいことだってことも、大いに有りうる、そんな気がするのですよ。結局のところ。