人にやってあげたいことなんか、何1つできもしないくせに。

『蹴りたい背中』-綿矢りさ。読了。お得感に負けて文藝春秋で買いました。選評もあるし。

素直に面白かった。『インストール』読んだときに感じた「心地よい文章書くけどその能力を持て余してないか?」的な感想を踏まえて言うなら、確実にその力を活かす術を見につけつつある。心地よく響くだけじゃないことばがそこにはあった気がする。恋愛小説、といえば確かに恋愛小説なのだけども、諦観やシニシズムの隙間から漂うさりげないあまさ(舌の上に乗ったら消えるようなアレだ)が、痛いほどに気持ち良い。この辺りは、恋愛のようなものを描写したから生まれたのだ、と思ってもみたり、みなかったり。

『インストール』はどちらかと言うと、物語を突っ走りぎみに線的に描いてささやかな成長(開かれ)を描く、という代物だった。結局その「開かれ」が中途半端で、起承転結過ぎても煮え切らない読後感が残ったものだけど、その点今作は違う感触が確かにある。確かに煮え切らない。けど確実に「成長のようなもの」を感じ取ることができる。おそらく構成が奇跡的に巧くいってるせいだと思う。似たような心理描写を繰り返しつつ、ささやかなズレをそこに加える。そのズレで以って「成長のようなもの」を語ってる。そゆのが今風なのかもしれないなぁ、等と思いつつ。つかズレの加え方が、ちょっと反則。

因みに「ようなもの」てのはこの小説の「煮え切らなさ」ゆえにそう呼ぶのだけど、この「ようなもの」感が個人的にはまたツボで堪らない。その上実際文章のリズムは相変わらず心地よいからなお堪らない。必要以上に書きすぎないのも良い。「ささやかな成長」を描くには丁度良い分量。作者の年齢とか諸所のタイミングとか、そゆのが奇跡的に合致したのかも、と思う反面、これを才能と呼んでみたくなる自分もいる。つかさ、なんつかさ、つくづく反則やで、綿矢はん。


余談だけど蛇ピアスはたぶん読まない気する。どう転んでも僕がいちばん苦手なタイプの小説な匂いがする。自傷癖に対する云々。この辺りだけは石原某と同じ感想を僕は持ってしまう。保守的な人間なんだよね。つか、思うけど綿矢のが絶対痛いて。何度も似たようなこと言ってるけど、あからさまな痛みより、さり気なさの中に垣間見える痛みの方が余程痛いんだ。絶対にね。