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「僕ら絶望の望を信じる/なんかわかんないかなって。」(中村一義/魂の本)

だらだらと辻仁成『ピアニシモ』を読み終えたら(名作の要素と駄作の要素が拮抗したありがちでいてよく分からない文章だ)解説に島田雅彦が、村上春樹以前以後の「文学」についてと、その中での辻の彼なりの位置づけが(おまけみたいに)書かれてた。そっちのが理解りやすくて却て面白い位なんだけども。要は島田氏は軽妙なリリックで戯れてくことを重視し、肝心なもの(文学性、てやつかな?)をあやふやにする春樹的要素の耐えられない軽さに批判的らしい。まぁ使い古されたステレオタイプな春樹批判である(逆に宮台なんかはこの軽さが好きらしいのだけど。)

けど僕にしてみれば、島田が名指しで「肝心なものと向き合ってない」と言ってる『風の歌を聴け』こそ、肝心なものを語ってる気がしてならない。つまり「絶望に絶望を見出だす」古典的文学性に対し、春樹は「絶望に希望を見出だす」スタイルを提示したのではないかと思う。それは「絶望と向き合う」ための純粋な手段だし、軽そうに見えて内実は重く響く気もする。ありもしない消え果てた希望を、信じようとするんだからさ。実はあの重々しく何の昇華もないよに見える「ねじまき鳥」にさえそいうスタイルは見える。にしても、良い加減春樹を「80年代的軽さ」の象徴のひとつとして語るのは、やめにしてくれないか?シルビア。

(むしろこれ90年代的でないかなと、中村やアジカンの歌詞思い出しながら思ったりもして。だから春樹は今でも、快作を書き続けることができてる。と。重い月。)