エイプリル・フール。

ひとりで生きていける自信なんてなかったけど、気がついたらわたしは家を飛び出していた。彼のいない部屋は、息苦しくて、大好きだった炬燵も彼の不在を感じさせるものでしかなくなっていた。誰かがいない、ということが、こんなにもつらいものだなんて、気まぐれに生きてきた私には全く想像だにできないことだった。

ササキさんは家で御飯を食べなくなった。わたしも、そんなササキさんをみていると御飯を食べることなんてできなくなっていた。そのうち段々とササキさんとわたしの距離が広がっていく気がした。わたしたちは、彼を中心にして繋がっていたのだな、と思った。ササキさんは家に不在がちになったし、そんな暗い家で能天気に走り回れるほど、わたしも元気じゃなかった。

わたしは彼がいなくなるのを知っていたし、彼もそのことをわたしにだけそっと伝えてくれた。彼は、ササキさんがいなくなったらきみは生きていけないだろう?とわたしに言って、そして去っていった。それは実は間違っていたんだ、とわたしは思う。けど、そう思ったところで、ひっくり返ったものが元に戻るわけではないんだ。わたしは無知だけど、それくらいのことは分かる。案外、ササキさん以上にそのことが分かってるかもしれない。

夜の道は風が強くて寒かったけど、明かりは点々と点いていて、歩けないわけではなかった。もともとわたしの目は、暗いのに強いようにできているのだ。ただまっすぐ、アスファルトの店を歩いた。何人かのひとが、(きっとコイズミさんとかノムラさんとかイトウさんとかそういう名前の人たちが)わたしに手を伸ばしてきた。わたしはそれを全て無視して、まっすぐ、背筋を伸ばして歩き続けた。わたしにだって、気品というものがあるし、わたしに触れていいのは、ササキさんと、彼だけなのだ。今のところは。もう、彼はわたしに触れられないんだけど。彼の肌はあったかかったのにな。

ふと、なにかがわたしの先っぽを擽るのを感じた。何かが上から降ってきて、触れたのだ。そういえば、上を意識して歩いていなかった。いけない。いっつも上を見て歩くものなのに、自分の上に何があるか気づかないなんて。

髭に触れたのは花びらだった。それは、道路沿いの並木から、ひとつ、またひとつと降ってきた。ねこであるわたしも、その花の名前はなんとなく知っていた。

去年、ササキさんが、その枝を持ってきて、花瓶に刺していたことがあった。そして、1つウソをわたしに言った。わたしはそのウソを本当だと信じて、後でそれがウソだと知ってなんだか腹が立ってきて、その日御飯を食べなかったんだった。ササキさんは取り繕うようにわたしに言った。今日は本当じゃないことを言っていいんだよ、て。どうやらそれは、この淡い色の花と、何か関係があるらしかった。

実はね、また、一緒に暮らせることになったんだ。

けど今になれば分かる。なんで、ササキさんがあんな他愛のない冗談を言ったのか。あれは、ササキさんの願望だったんだよね。願望って難しいことばだけど、ねこにだって、叶えたい願いごとのひとつくらいはあるんだ。1年前のねこにはなかったけど、今のわたしにはそれが、ある。彼に逢いたい。盲導犬として生きることを選んだ彼。彼に、わたしのすすむ先を、どうか示して欲しい。

目の前に、風にさらされて落ちたのか、小さな枝が落ちていた。幾つかの花びらがまだくっついていて、それが橙色の伝統に照らされて、未だ止まない風にゆらゆらと揺れていた。わたしはそれを口にくわえた。くわえた瞬間、思ったんだ。わたしには、覚悟が必要だ。

向こうから、くろねこがひとり、歩いてきた。わたしは枝をくわえたまま、くろねことすれ違う。くろねこがふと、足を止めた。何かを感じたのかもしれない。わたしは、思わず口を開いた。枝がぽとり、と落ちる。構わず、くろねこにこう囁く。


知ってる?いぬに恋したねこがいるんだよ?


くろねこはじっとわたしを見る。その目がなんとなく怖くなって、わたしは思わず、冗談だよ、と言った。こんな夜なんだから、ねこだって冗談くらい、言っていいじゃない。くろねこは、わたしの言い訳じみたことばを聞いてふっと微笑んだ。それから、一言呟いた。信じるよ、信じる。しっぽをふっと動かして、くろねこは、頭上の木へと大きくジャンプした。くろねこは闇に溶けて、あっと言う間に見えなくなった。

家に帰ろう、とそのとき思ったのだ。なんでだろう、けどとにかく、ササキさんのもとに帰ろう、と強く思った。それが最良だし、今、彼のために、何より自分のために、わたしにできる全てなのだ。あなたは無理だって笑うかもしれないけど、わたしはあなたのように生きたい。だから、ササキさんと一緒に、また出逢える日を待ち続けるのだ。足元に転がったままの枝をまたくわえて、わたしは踵を返した。花びらはまたひとつ、わたしのさきっぽを擽ってくる。きっと想像した以上に騒がしい生活が、わたしを待っている。

……。

http://park12.wakwak.com/~asap/dic/life.html
これの続きをなんとなく書いてみたくなりましたとさ。4/1のお話。