サチ。

世界で一番、幸せな男がいる。彼は、幸運という幸運を身にまとっている。妻に恵まれ、子に恵まれ、富に恵まれている。多くのものを彼は得たし、彼はそのことに至極、満足している。眠りは心地よく、時間は緩やかで、周りの人々は、皆、彼のことを畏敬の念を持って接してくれる。彼が何かを言えば、周りは、その通り、と答えてくれる。彼が叱責すれば、申し訳ありません、と頭を垂れる。丈夫な壁に守られたその街で、彼は多くの物に囲まれて、暮らしている。

多くの盃を彼は、テーブルに並べている。10個並べられた盃は、遠い異国から取り寄せた特別な高価な物で、長寿に効能があるというこれも高価な酒が並々と注がれる。彼はそれを一気に飲み干し、盃を庭へと捨て去る。積み重ねられた盃は、彼が満たされたその証でもある。1つ盃を捨てれば、新しい、西方から取り寄せた盃が娘によって運ばれ、そしてまた、酒で満たされる。彼は笑い、彼を囲む娘も笑う。そのまま寝室へと向かえば、彼はまた幸福に満たされ、幸福な夢を観る。

彼が眠りに落ちたとき、街の人々は、彼の家を囲み、祈り始める。光が彼の部屋を包むが、彼は幸福な夢の中にいて、その光には気づかない。少女が訊いた。なんで祈っているの?と。少女の義母は答える。この光は、私たちの幸なんだよ。こうやって彼に、我々の幸を少しずつ分け与えているの、と。どうして?折角の、皆のサチなんでしょ?と少女は首をかしげながら尋ねる。義母は困ったように答える。彼がいないと、この街は大変だからだよ。彼はこの街の長老だし、幸せで居てくれないといけないことになっているんだよ。

少女は少し考えて、義母に尋ねた。じゃぁ、どうしておかあさんは、もう何日も御飯食べてないの?髪に白いの増えたよ。隣のお姉ちゃんがこの間泣いてるのも見たよ。自分のために、サチを使えればいいのにね。おなかいっぱいで、えがおいっぱいで暮らせればいいのにね。ダメなのよ、と義母は言った。それは決まりなの。私たちは、彼を守る、そういう決まりなのよ。長い長い間、あなたのお母さんや、おばあちゃんや、そのおばあちゃんが守ってきた、大事な大事な決まりなのよ。

少女は、皆が止めるのも気にせず、部屋の中へと向かった。そして、無表情なまま、眠る男の頬を、ぱちんと叩いた。男が起きた。その表情はみるみる怒りの表情へと変わった。俺の幸福な夢を妨げるのは誰だ、と。しかし少女ははっきりとした口調で言った。知ってる?皆が運んでくる盃は、遠い国から来る高価なものなんかじゃないくて、裏のお兄ちゃんが、隣町の森を切り開いてできた材木の屑拾って、ひとつひとつ作っているんだよ。お酒は、角のおじさんが、収穫の日に皆に振舞うために作ったお酒の搾り粕で作ったものだよ。あなたは、目に見えるもの全てが素晴らしい世界だと信じてるけど、あなたの目はもう半分以上見えていないんだよ。お嫁さんも娘さんも、笑って喋ってるようで、実は全然あなたの目を見ようとしないんだよ。あなたが言った言葉は、実は誰も心に響いてなんかいなくて、みんなを傷つけてるよ。あなたが笑ってると思ってる周りにいるお姉さんたちは、実は顔をしかめているんだよ。だって、皆、子供も生まれないし、御飯も毎日食べられないし、とても暗くて寒いところに住んでいるの。路地裏でおじさんの悪口言ってるよ。こんなふうに。

どうして、こんな決まりがあるの、て。私たちの限られたサチを、どうして、あんな傲慢な男にわけあたえなきゃいけないの。て。彼は気づいてないのね、彼の医者は、彼は私たちがサチを与えなければ、もう数日の命なのにね。て。可哀想、あなたは、世界で一番、不幸な人なのよ。知らなかった?

男は、数日後息を引き取った。その遺体は何処からも見つからなかったし、死因も分からなかった。しかし、彼が死んだ原因は街の誰もが知っていた。あの晩から、幸を与えるのを止めたから。街は悲嘆に暮れ、彼のために盛大な式を催した。多くの娘は泣いていた。路地裏の娘もだ。私たちが幸を与えるのを止められたせいよ、と娘は取り乱して言った。そして、少女に詰め寄った。あんなの、本気で言った訳ないじゃない。たとえ私たちが不幸になっても、決まりは守るべきだったのよ。彼は幸福でなければならなかったのよ。

これから、私たちは何を信じたらいいの?娘は、少女の頬をはたいた。少女は泣きもせず、黙って、じっと、娘を見つめた。娘は今度は左手を上げたが、義母が彼女をかばうように抱きしめたとき、その上げた手を振り下ろすのを止めた。しかし、義母も、娘も、その瞳は潤んでいた。まるで、世界が終わる瞬間を目の当たりにするような、絶望的な表情で。

そのとき、少女は、東の家を指差した。一筋の煙突の煙が立つ家だ。そのとき、家の方から、大きな産声が上がった。娘達の涙を流すのも忘れて、その家の方向を見つめた。

みんなで幸せになれるんだよ。少女は、そう言って微笑んだ。男達が酒を、少年たちが盃を、その家に運んでいる姿が、遠く霞んで見えた。空を見れば、雲間から、光が差し込んでくる。長かった雨は、もうすぐ上がろうとしている。