もはや戦後どころではない。

W杯も、サウジアラビア、イラン、トリニダード・トバゴトーゴポーランドコスタリカ、マルタ、ヴェルディ川崎と比較的波乱なくベスト8が出揃い、中休みに入ったらしい。そろそろあの試合から1週間、ということで、ようやく客観的に見られるようになりそうだ。ご存知の通り、ベスト8に日本はいない。決勝トーナメントにすら行けなかった。忘れちゃいけないのは、選手の一部は、優勝を狙うと公言し、監督は「世界を驚かせることができる。」とはっきり言っていたことだ。結果的にみれば、確かに日本から観た僕らは、非常に驚かされた。というか、盲目になろうとしていた自分たちに対し驚き、いやむしろ、はっきり動揺することとなった。世界が日本人の受けた動揺を知ったら、FW陣の決定力不足に対してより驚くことだろう。何を驚くのだ、と。冷静になってみれば、あのグループで日本が大苦戦するのは、自明ではないか、と。

だけど僕らははっきり動揺した。特に豪州戦のラスト10分は、悪夢だった。観るものはおろか、生放送をするアナウンサーや解説者までも言葉を失っていた。ドーハの時には「悲劇」だった。あのシーンに対し「なんということだ!」と絶叫することができた。けど今回は、叫ぶこともできなかった。ドーハの時には、もうこれはリセットできないことなのだ、と諦めることができたけど、今回は、何とかリセットできないものか、と悔やみ、そしてその悔いが最後まで日本を覆い尽くす結果となった。悲劇は、後から語れば、それなりに笑って話せるようにもなろう。けど、悪夢を語れるようになるには、成長だけではなく、それなりのカウンセリングと、自浄が必要となる。戦後の言説が極めて混乱しているのは、今のサッカーをめぐる言説空間が、悪夢を見た直後であるがゆえのカオスだからだろう。どう対処していいのかわからないのだ。だからこその「あ、言っちゃった。」なのだ。言っちゃったじゃねぇよ、とか、アウトサイド右足でGKマタ抜きクリアかよ、という怒りすらも空虚に響く。

今回の敗戦の根本原因は、決定力不足とか経験不足とか体力不足とかテレビとか電通とかアディダスとかのせいだけではどうしても片付かない。あの状況下に置かれた選手を責めるのは酷だし、だからこそ成田空港で暴動も起きなかった。かと言って、帰国した監督にブーイングが置き卵が投げられたかというと、それもなかった。薄々、何かひとつを責めれば片付く問題じゃない、ということに、懸命なる日本人は気づいちゃってるからだと思う。少なくとも、城に水をかけて納めようとした時代に比べたら成熟している。だけど、やっぱりどう語り、何をすべきかは、分からないままでいる。だから、つい先日のことは忘れたふりをし、あーぁ言っちゃったよとか言って、オーストリアの地に目を向けたのだ。

少なくとも僕は、ジーコ独特の封建主義の崩壊が観ていて哀しかった。サッカー協会も含めると「官僚主義」と言っても良いかもしれない。あるライターの記事にもあったけど、彼は、まるで選手の背中に1から23まで番号をつけ、その順番通りに選手を選んでいった。その基準は「貢献度」。何かに似てると思ったら、それはダイキギョウ組織のそれなのだ。上が傍にいてほしいときには傍にいて、上が仕事を丸投げしたときには黙ってそれを受け取り、文句を言えば資料を修正する。上はそういう態度をみて、相対評価の名の元に、人にランクをつける、上位になった人間から出世する。気に入らないことがあれば、180度ひっくり返って左遷される。ジーコは勤勉なキャラ、黙って働くキャラ、無茶に応えるキャラ、自分の放任を受け入れかつ忠実なキャラを重宝し、自分の意にそぐわないときには、ポジションを総入れ替えし、2度と代表に呼ばなかったりもした。思えば久保の悲劇は、黙々と仕事しながら、喋れないしよく休むという理由で役員当確の土壇場で左遷させられた、哀しきサラリーマンの姿とかぶってみえる。その代わりに、25歳の勤勉な若手を起用というのもまた分かりやすい。実はジーコジャパンは、個のチームとか言っておきながら、家族的であることを重んじた、組織的なチームだったのだ。家族に対し学校のようだったトルシエ時代と違い、ディシプリン(校則)はなかったけど。

だけど、少なくとも僕は、その官僚主義を悪いことだと思ってなかった。日本を高度経済成長に導き、国際競争力のある国にしたのがまさしく大企業の官僚主義だし、アウェイの中心で、日本をアジアチャンピオンに導いたのもまたジーコ官僚主義だった。アジア杯は、ファミリーと化した組織が逆行の成し遂げた奇跡の業績であり、まさしくプロジェクトXモノだった。骨折明けの選手を連れていこうが、欧州の控えを連れていこうが、若手を一切切り捨てようが、鹿島出身に甘かろうが、そういう、理屈を超えた精神論的な何かに縋りたかったのだ。けど、それが通用する時代じゃないことは、客観的になってみれば分かったことだ。ディシプリンのない家族企業がどんどん淘汰されている世の中、まして擬似戦争であるW杯に、そんな甘い精神論は通用しない。数々の場所で書かれている「戦後」というフレーズはやけにリアリティをもって今回響く理由は、そういう僕らが(少なくとも僕が)信じてきた、官僚的、家族的な何かが、圧倒的な力強さの前に、あっけなく打ちのめされたという点で、60年前と何か近しいものがあるからだろう。同時にそれは、バブル崩壊の衝撃とも似ているのかもしれない。親善試合ドイツ戦の直後、大高騰した日本の株は、たった10分で、どん底にまで落ちたのだから。

そしてやはりそういう、世界が転換期を迎える混乱の時期でも適応できる、それなりの積み重ねがあるチームが、順当にコマを進めている。そんな中、敗戦国の僕らはどうするべきなんだろう?経営陣の首すげかえたりすれば責任は回避できるという文化を持つ日本が(だけど本当に裁かれるべき人間は逃げ延びることができる文化を持つ日本が)、聡明なるセルジオ越後の言う通り、本当に、客観的に今回のことが反省できるのだろうか?僕はそうは思わない。残念ながら、思えない。歴史が繰返すのだとすれば、この後起こるのは、サッカー界における植民地支配、もしくは、外資(外国人指導者や選手)の流入だろう。まぁ今はそれを受け入れざるをえまい。耐えがたきを耐え、しのびがたきをしのび、再建を待つより他ないのだ。まさか敗戦直後で敗戦処理もできてないこの段階で誰が監督になるのかなんて決まっているわけはないし、裏で交渉してたとしてもそれをメディアにもらすような間抜けでは日本サッカー協会ではないだろうし、まして責任回避のためにわざと情報をリークするような真似はしないはずだから言うけど、まぁ僕の予想からすると次の監督は外国人監督だろう。そして、そういう官僚主義がいかに歴史の過ちであったか、ドイツで起きたような数多くの悲劇を生み出したかを説得し、国もろともある意味自分のサッカー哲学に染め上げるような芯のある人間じゃないと、反共・平和主義に日本を染め上げ復興を橋渡ししたマッカーサーの役割はつとまらないんだろうな。それがダメなら、きっと何処からか変人がやってきて、パフォーマンスで好き勝手跳梁して新たな官僚主義を築いて、ばいばいと去っていくんだろう*1僕にできることは、とりあえず前者のような監督がやってきて、審判や天候に左右されないほどの哲学を敗戦国に植えつけるのに成功するのを祈ることのみである。後者がきたりて笛を吹いたら、また踊るだけ踊って、結局新たな官僚主義ができて、全て終わるに決まってる。さっき書いたとおり、日本を自浄に導く、優秀なカウンセラーこそ、今必要なのだ。カウンセラーに一番必要なものは、基本的な技術は勿論のことだけど、加えて言うならば"言葉"だ。今、僕は、患者のために自らの経験も蓄積も何もかもを出すことをおしむことなく、日本を厳しさと優しさで包み込む、含蓄ある言葉の復権に期待したい。それを受け止められたときにはじめて、個は復活できるのである。

あれ?で、やはり戦後、トップは責任回避なのですか?あ、言っちゃった?言っちゃいけなかった?


*1:特定の選手のことを指しているわけではない。と書いておこうかと後で気づいてしまった。