a dazing in AIR's Life.

ありとあらゆる飾りを剥がしたら、そこには逆光に輝く純なナルシシズムが残った。『A Day In the LIFE』-AIR

と言うようなアルバム。言っておくけど、これは車谷浩司に対しては最大限の賛辞である。ナルシストでない車谷浩司など存在し得ない。このナルシシズムっぷりを巧い方に昇華すれば、とてもステキな音楽が残るし、逆に作為とか衝動とかで掻き消そうとするとムラがでる。突き詰めて言ってしまえばAIRの曲々ってのはその痕跡の繰り返し以上でも以下でもない。

さて、今作はラウドなギターもシャウトも派手なメッセージもない。アコースティックな編成の曲が何時に無く目立つ。リズム隊もキーボードもコーラスも恥ずかしいポエムさえも必要最小限、という装い。素朴なアコギのフレーズを鳴らすフォークやカントリー調の曲が多い。ちょっとスリーコード鳴らして呟いてたらはい出来ました、みたいなシンプルなメロディ。元々メロディ自体はシンプルな音楽屋だけど、それらをひたすら繰返すことにより、車谷は「歌」を歌う自己を演出している。ここまで歌が前面に出たAIRの盤を僕は聴いたことがない。『Usual tones of voice』とか言いつつ、なんのかんのとオトや声を重ねるのがAIRだった。けど今作は違う。シンプルさゆえに、歌をあえて前面に出しているのだ。シングル曲2曲の歌詞を見れば一目瞭然なのだけど、ともかくこの盤において車谷の一番の目的は「歌う」ことであり、その歌う露な姿を聴き手の耳に晒し、歌う歓びとやらを表することである。それさえ表せれば歌詞なんて半ばどうでも良かったんだろうと思う。だからこそサビで「ぱぱぱぱ」とコトバを放棄しだすし、だからこそたった2箇所のAメロを除いて、「We can sing a song!」と一見すると愚直に見えるくらいに叫ぶのだ。けど、それらフレーズの、実に雄弁なことか。

過去の自分の曲に逆行したかのようなフレーズを歌詞やメロディでさりげに引用してるのは、そういう歌主体な表現をするための手段に過ぎないだろう。彼にとって、ツボなフレーズを歌うという目的においては、そうすることに躊躇う理由など何処にもない。むしろ、聴き手の注意を向ける、という点においては、それらは彼という唄い手にスポットライトをあてるための道具といえるだろう。いささか強烈な逆光に見えなくもないけど、彼の衒いを隠すにはむしろ丁度良いくらいかもしれない、とも思う。少なくとも、それは退行でなく、まして進化でもない。

さて、試しに彼の復活シングルからのジャケットを見て欲しい。その多くが逆光で撮影されていることに気付くのにそう長い時間はかかるまい。カオを隠している、という点ではシングル2枚アルバム1枚共通している。彼にとってみれば、歌うという純な動機が伝わりさえすれば、己の表情なぞどうでも良かった、というメッセージなのかもしれない。逆光という手法は映像でも写真でも、撮影者や被写体のナルシシズムを強化する道具として用いられている訳だけども、その眩しさがとても心地よく映るし、音楽を支える装置として巧く作用している。むしろ、カオを出し、肌を露にした「飾った」写真の方が、AIRAIRじゃなく見せてしまっている気さえする。いや、そんな写真はどうでもいい、飾りを失くしたことこそが、この盤の最大の魅力である。光と影のグラデーションというシンプルな模様の中で、時間を逆行しながら、繊細な声で力強く歌う。その瞬間こそが、AIRナルシシズムの極致なのだ。その純なる姿に、カンパイ。