愛と欲望の日々。

『メゾン・ド・ヒミコ』-犬童一心監督。鑑賞。

これは良かった。犬童一心監督、細野晴臣音楽という情報以外はほぼ持たず、オダギリジョー柴咲コウの主演だのなんて忘れ切って、11/4で渋谷上映終わるというから思いつきで入ってみたのだけど、期待以上。久々に「あぁ、映画観たんだなぁ。」という実感が身体の底から湧いてくるような映画的映画を観れた気がした。まぁそう言うほど映画観ないんだけど、エンドロールをぼんやり眺めている感覚が自宅に着くまで続く、という形容が正しいだろうか。そんな感じ。

ゲイの老人が集う老人ホームというキワモノぎりぎりな設定をとことん活かしきって生まれた徹底したダイナミズム。そしてそのダイナミズムのウラに、ある種お決まりのように存在する(けどお決まりのように感じさせない)終わり、というテーマ。モラトリアムとその終焉を、「異なる存在」というテーマも交え反則ぎりぎりの一線で生き生きと描く、という点では、同じシナリオライターやプロデューサーで撮られた秀作『ジョゼと虎と魚たち』に通ずるものがある。『金髪の草原』もそうだけど、このテーマを撮らせたら、今犬童の右に出るカントクはいないんじゃなかろうか。

こいう力強いフィルムには、作中の細かい矛盾とか、気になるところとかあらゆる雑念を吹っ飛ばす何かが存在してる。ひとつひとつのシーンの連なりを、それは偶然の連なりなのに実は必然だったのかもしれないと思わせてくれる何かが。シーンは断片的で、隠された部分も多くあり、その逆に出っ張りすぎた部分もあるにはあるのだけど、トータルで観てそのバランス加減が心地よく感じられる。実に重い映画のようで軽く、軽くみえる部分も持ってみると、実は重い。その引っ張りあい自体が、映画そのものを面白くしてる。ラストは賛否分かれそうだけど、モラトリアムが終わったとみるか始まったかと観るかは、映画の部品部品の捉え方によっていかようにも捉えられることだろう。僕は、始まり、ととる。これはジョゼのラストシーンにも通じながら、ジョゼに漂った孤独を払拭しているという点で、一歩進んだ始まりだ、と観ることだって可能かもしれない。

いずれにせよ確かなのは、終わりを描きながら、この映画では常に何かが生まれ始まっているということだ。予定調和なようだけど、それをただの予定調和と呼ばせない連なり。これを陳腐なことばに置き換えるなら「優れた物語」ということばに集約されるだろう。あえて陳腐に繰返そう。これは、優れた、愛と欲望の日々の輪廻を描いた、物語だ。