その音楽の<私>とは誰か。

徐々に著作権関連やらの文献やら音楽美学の文献やら読むのにもまとめて書くのにも飽きて、というか問題意識の先走りばっかりがおき始めて一向にシコウが前に進んでいないので、そろそろインプットからアウトプットするために何を集約するのか考える、ということの必要性を自覚してきた。けどあれこれ文献あさっても、なかなかそうするためのツールとなる文章がない。で、結局、大塚英志に先ずは原典回帰。『キャラクター小説の作り方』講談社現代新書)。How to本ぽい本かと思って手を出したらそんなことはなく読み物としてしっかりしている。なんとなくそゆ本だという予感はしてたけど。

東浩紀のデータベース消費論をそのまま持論の延長形として引用してるのが不満だけど(大塚と東のスタンスは似ているようで絶対違うと思う。なんとなく。むしろ、互いを互いの立場のために利用しあってる、というか。)やはり読ませてくれる。私小説的私語りとものづくりという概念の関係性、そしてパクリとオリジナリティの関係性を考える上では、マンガ原作者、小説家として現場でそれを実践してるという面からみても外せないと思う。

けど、大塚の提唱する「一人称を抹消しキャラクターの視点から小説の世界観を設定する。」という方法論が果たして何処までポピュラー音楽に適用できるのか。読了してないのもあるけどその辺未知数なところはあるとかなんとか考え中。何故なら、自作自演のポピュラー音楽屋は、キャラクターを演じると同時に「表現する<私>」というスタイルをあからさまに表出するからだ。「私というキャラを演じる」のと「本気で私語り」するてのが渾然一体となってる。事実、一応フィクションと断り書きの存在する小説と違い、歌う主体が聴き手の目の前にあるだけに、一見して、それがマジなのか、演技なのか、区別しづらい点もある。例えば不幸な生い立ちを暴露し背負いそれを乗り越え歌う、という物語をおもてにだすことで、そんな特性を確信犯的に拡販に利用するようなやり方も存在する。一方で、四畳半フォークソングの延長に典型的な、私小説弾き語りも存在する。じゃぁ、これらのケースの場合、歌い手の語る<私>とは何者なのだろう。歌っている主体なのか、物語化された歌い手なのか、小説のように作り上げられたキャラクターなのか。

<私>という物語(世界観)を音楽制作者が設定してする場合、それはいったいどういう意図で、どういう背景で設定されているのか。そして聴き手はそれをどういう方法で聴取し、消費していくのか。「からっぽな私」を自己表現するという逆説を過激なまでに音楽実践の方法論として適用するオレンジレンジなんかは、どういう風にこの枠組みに捕らえられるのだろう。ちょっと、続きに注意しながら読み進めたい。