3人目のFinalizer.

イシダがフライングVに持ち替えたのがたぶんこのタイミング。ギターにMOTORWORKSステッカー貼りっぱなし状態に苦笑する。まぁ一端貼ったら剥がすもんでもないか。そんなこんなで、あーいよいよバンドでぶっ飛ばすんだろうなぁという予感が漂った。大体残りやりそうな曲というのが読めてくる。不思議なもんである。

ラストスパートの序章は『Good bye Nautilus〜さよならノーチラス号SCUDELIA ELECTROのすごさってのを最初に浴びせられたのがこの曲だった。CDでは有機的にSEとギターポップを絡ませ叙情的に風景を語るということを実践してる何百回と聴いても全く飽きないキラーディスコチューンなんだけど、この日ばかりは別の意味で殺された。重い、だけどもポップな4つ打ちに支えられたロケンローチューンへと変貌してた。とにかく踊り狂う。だけどもこの曲の持つせつなさとかいなたさは全く損なわれない。嗚呼、やっぱりイシダ、歌巧くなったんだなぁ。20世紀の夜のエンディング、というフレーズに、10年近く前の曲なんだという歴史をちょっと感じたり。けど全然色あせないのなぁ。evergreen、てことばはポピュラー音楽と共に本当にあり続けるのかはよく分からないけど、何となくこういう曲を聴くと、本当に何百年経っても色あせず残るんじゃないか、て嬉しい錯覚を覚えさせてくれる。SEの曲にはそういうマジックがあった。いや、あるんだと思う。いや、ある。たぶん。そしてこれまたキラーチューン『ミラージュ』へ。いや、この曲はライヴを重ねる毎にほんと化けてった。アレンジも化けたけど、存在感そのものは最初聴いたときと全然違う。最初は「なんか過剰にポップでクサイ詩なギターポップだなぁ」と割と苦笑って聴いてたんだけど、色んな形で聴く度形をかえてって今やすっかりロマンチックが止まらない代表曲となってしまった。吉澤がピアノアレンジにしたときに曰く「ミラージュがこんなすごい曲だって思ってなかったんです。」。全くだ。へへいへーい。この辺りから会場は大合唱モードに。イシダも歌え歌えと煽る煽る。たった2曲で、会場のヴォルテージ最高潮に。

流石に濃い2曲をやったせいで疲れたのか、ここで平均年齢40をとっくに超えてるステージメンバーMCを挟んで休憩。「親友を紹介します。」というイシダの声でゲストに来たのはSCUDELIA ELECTRO第2代ドラマー(?)堀ノブヨシ。たとえオトが軽くてもあの笑顔には何故か癒される。というか、MOTORWORKSになって確実に叩きが変わったし、自分の武器の叩き方が分かってきたんだと思う。あくまで印象でサッカー好きでないひとには分かりにくい比喩で言うなら、MOTORWORKSでの堀ちゃんは、コンフェデでなんだかプレイ見違えた加地亮みたいな感じ。どうこのメンバ構成と絡むのかなぁと思ったら、何時の間に用意してあったパーカスの前に座る。嗚呼、今日はやっぱり祭りなんだなぁ、と改めて実感。最期は皆で盛り上がろうぜ、ていう意思表示を感じる。これはしんみりナンバーはもう無いな、と覚悟をきめ水分補給。こうなったら徹底的に盛り上がってやる。

じゃかじゃーという最初のギターの流しで僕はてっきり『Day After Tomorrow』が来るのかと思ったらそれは空振りだったらしい。ジャジーで特徴的なコード進行。ごりごりのロケンローナンバー『CRY』だった。この曲もライヴで化けた、というか、ライヴで真価を知った曲だなぁ。あの分厚いオトを目の前で演奏られちゃ「愛すことは美しいと限らず/無い愛をどうして振りまくことができる?」なんて赤面歌詞だって素直に聴こえてくるんである。何度も言ってしつこいが、イシダ歌巧くなったなぁホント。続けざまに来たのは、このリズム隊でやらない訳はないだろう、叙情的なイントロはここでの爆発の伏線でしたて感じの『MOONBASE(fly out ver.)』。狙いすぎである。けどしっかりやられる。盛り上がる。イシダ2番でヴォーカルをトーベンに渡し、早弾きでギターを弾き倒す。会場煽られる。「Fly out!」はAX大絶叫。速いBPMのおかげでホントにどっか飛んでしまいそうな気分だった。

ここでふっと思い出したんである。イシダが楽しそうーにギター弾き倒してるとき、ふと、脳裏に、何度も何度も何度も何度もVTRで観たSpiral Lifeの最期の横アリライヴ『Sell out』の映像がよぎった。『NERO』で何かを諦めたかのように、明るいとは言えない表情でただただノイジーなギターを座って掻き毟る、石田小吉の姿がふとオーヴァーラップした。重ね合わせる。同じ終わりのライヴだってのに、メンバーだってあのときから1人が抜けただけだってのに、全然違うのが分かる。横アリのあれは「葬式」だった。けど今回のコレはなんなんだろう、とふと思ってみた。実は未だ答えは1週間経った今でも*1分かってない。とりあえず確かなのは、この「ファイナルライヴ」は「葬式」ではないてことだ。何かに蓋を閉じるための儀式ではないてことだ。でなきゃこんなカラっとしてない。ポジティヴにハイテンションな訳は無い。なんてことばでこういうのを形容したら良いのか、僕の拙い語彙ではそれが適わない。マツリ、てことば何度も使ってるけど、単なるお祭り騒ぎでもないことも確かだったのだ。

皆にとっての明日がよりよきものでありますように。『Better days』。そんなイシダのメッセージを元に終曲が始まった。そうか、明日がある、てことなのか。来るべき世界、というサブタイトルを冠されたこの曲。これを敢えて東京で終曲にもってきたのは(大阪ではUN1だったらしい。)、ある種のメッセージだったのかもしれない。そういえば、この曲ってスパイラルのこと俯瞰して歌ってるんだなぁ、とふと気付かされた。何度も聴いてるのに、そんなの気付いたの初めてだった。多分、横アリの映像を強く意識しすぎてたせいだろう。「目的地の無いバスにはあの頃の僕のfigureがある/遠くへいけば行くほど/たどり着くZEROと書いたここに」。明確な目的地もなくサイケデリックバスに乗り込む向かう『FURTHER ALONG』、もっと遠くを意識しつつ、そして過去を意識しつつ、だけど原点に還る自分をZERO地点に刻み込む自らの姿。そう考えると、感慨深くもあり、意味深でもある。歌詞に意味などない?だったらこの曲の底にある「コミュニケーション」への深い欲求はなんだろう?

たぶん、とふと思う。石田小吉は自らのZERO地点を確認することで、過去を未来へと繋げたかったんだろう。何時も何時でも。だから敢えて向山テツ湯川トーベンという、「あのときの」メンバーをそろえたのかもしれない。そして、この曲でそれを改めて確認したことが、アンコール後のMCに繋がってたんだと思う。まるで卒業式の送辞だか答辞だかを述べてるかのような寺田康彦、吉澤瑛師の解散にあたっての言葉を受け、石田が言ったことばはこんなだった。デビューしてから12年間音楽やってきたけど、ずっとしんどかった。これで終わりにしようって、大阪ライヴまでは思ってた。だけど、今日のライヴやって気が変わった。こんな楽しいライヴができるなら、また頑張って曲つくって、皆の前に姿を見せたい。

もう少し時間をくれ、とイシダは言った。正直もうネタ切れ、と本音を吐く。確かに12年間止まらずに、文字通りからだに鞭打ってまで幾多の名曲を量産してきたオトコである。イシダは自らの過去の音楽体験を自分なりに翻案し、「イシダの曲」を作り続けてきた。そういう意味では、音楽体験というガスが入らなければエンジンが回らない、きっとそういうタイプなんだろう*2。だからMOTORWORKSで(スクーデリアやスパイラルでも)自らの原点であるカヴァー曲をやり続けることでガスを補給してきたんだと思う。けどスピードが追いつかなかった。仕事量の問題もあったし、恐らくリリース時期等商業的な事情もあったんだろう。確かにイシダ曲は近作になるにつれマンネリ化してった、けどそれはガス補給のスピードと突っ走るスピードのミスマッチを考えれば仕方の無いことだったんだと思う。

だったらじっくりハイオク蓄えて、また出てきてくれよ。偽らざる僕の本音である。彼のことばを聞いてほんとそう思った。ガスさえ足りれば、イシダは決して枯れる音楽屋じゃない。そのことを、このライヴで思い知ったのは、他ならぬ彼自身だったんじゃなかろうか。遠くへ行っても、彼はきっと戻って来るのである。ステージに。地点ZEROに。たぶん、この長い2時間以上の、大阪を含めると5時間以上の前フリは、そういう宣誓のための布石だったんじゃなかろうか。なんだ全然終わりなんかじゃないじゃん、てこのとき思った。ひょっとしたら泣くかなぁ、とか思ってたけど、涙なんかでようはずがない。むしろ笑いが止まらないじゃないか。つまりは、明日があるってことじゃないか。

アンコールはデビュー曲『Truth』。まさしく原点の確認である。美しいメロディを、普遍的な良質なポピュラーミュージックを、より近く聴衆へと届ける。エレクトロな世界観とロックンロールの技法の融合。寺田氏のPA、ダブワークはAXという空間をさっきの興奮の坩堝とは別の空間へと塗り替え、イシダの爪弾くサビメロのギターソロがその空間にそっと筆を乗せた。ひとつひとつの楽器が丁寧に筆を重ね、その中で力強くイシダヴォーカルは1枚のデビュー曲を描ききった。感覚論で言うならそんな感じだった。スパイラルのときは終わりの曲で終わった。だけどSCUDELIAは始まりの曲で幕を閉じた。何か終わり、また始まり、てこれじゃ別のひとの曲だけど、まさしくそんな言葉が似合うような光景だった。Happy Re-Birthday……これもまた違うな。けど何か祝祭的な匂いを感じる一幕だったことは確か。ここに真実を結ぶ、てか。ほんと、キレイに結んでくれた。ありがとう。

そんな思いで拍手をしてたら、もう1回出てきてくれた。「客電落としたら帰ると思ったんだけどなー。」とは何時ものお決まりの台詞である。折角のお祝いなんだから、もう1曲くらい演奏っておくれよ、て会場の雰囲気に乗せて届けてくれたのは来るべき夏への賛歌『サマーレインだった。この曲選は確かに意外だったけど、これはこれから熱い夏を迎える会場のSEファンへのささやかなプレゼントてやつだろう。やって欲しい曲のひとつだったから、正直嬉しい選曲だった。たぶん、ここで大阪みたいに『霧雨』とかやられたら、ホントに終わってしまうよ、て雰囲気になってしまったことだろう。夏曲でも『太陽道路』やられたら「バイバイさよならMy Friend」なんてフレーズで切なく踊り狂ってしまって帰る気分どころじゃなくなっただろう。けど夏への賛歌は、素直に4人+PA席の作り出す等身大のオトを見事に表してくれて、また観衆もハンドクラップでそのオトに応えて、実に爽快なオーラスを演出してくれた。なんだまた夏が来るじゃんか、そして春が残した未練に出会う秋の気配なんて目の前に訪れるんじゃないか。終わりなんてないんじゃんか。続くんじゃないか。続いてくんじゃないか。心底そう思えた。

曲が終わってメンバーが去った後も拍手は鳴り止まなかった。会場では追い出しにかかってたけど、なかなか拍手は鳴り止まなかった。個人的には、また出てきて1曲やってくれるんじゃないか、て淡い期待もあったけど、なければないで満足だし全然構わない、て感じの拍手だった。最後はPA席に残ったメンバー寺田氏に惜しみない拍手が贈られた。寺田氏は照れくさそうに片手を上げ、PA席を退場。これでもう、次の曲は今日ないことが決定的になった。それでも拍手は鳴り止まない。感謝とか感動とか記憶とか寂しさとかあらゆるものがまぜこぜになった拍手だった。徐々に会場を後にする人数が増え、スタッフも片付けがあるので頼むからでてくれという具合に追い出しの声を強めていた。そこで拍手は止まり、本当に「今日のライヴ」が終わった。不思議な爽快感が身体を貫いた。終わりって、こういうもんだっけか?と思ったけど、たぶん違うんだろう。これは終わりではないからだ。イシダは今日の終わりから何かを始めることをこの式で宣誓したのだから。

暑い夏の気配が一歩一歩近づいてくる。きっとまた『サマーレイン』や『太陽道路』や『水虎の涙』とかとか聴き倒す夏だ。部屋に戻れば膨大なSCUDELIA曲のストックが未だ未だ存在している。数々の記憶を記録した媒体だ。それらは聴き倒す度、きっともっと石田小吉のこの日の誓いを強く思い起こさせるのだろう。何年かかるか分からないが、まぁMOTORWORKSでも聴きながらイシダがフロントで再び歌う日を待とうじゃないか。霧笛の代わりに、別れのロックンロールサウンドは、響き渡ったのだった。バイバイ、また逢えるさ、てか。なんだか泥臭い汗臭いライヴレポの締めには、なんだかキレイ過ぎるかな、そんなフレーズは*3

*1:本項目執筆2005/6/26

*2:蛇足だけど、これはかつての相方AIRこと車谷浩司とは根本的に異なる特徴だと思う。同じ「パクリ実践屋」でも全く方法論が違うのはそういう部分であろう。

*3:恐らくこういう形式のライヴレポは書かないと思う。まぁ解散ライブてお題目に免じて許してこういう主観に塗れた評を書くのを頂きたいと思います。少しでもこのライヴの雰囲気が拙い筆力で伝われば幸いで御座います。合掌。SCUDELIA ELECTRO, WE WERE.