J-POPs not J-POP?

『Jポップとは何か』-烏賀陽弘道岩波新書)読了。いやはや、堪らない概説書ですな。こいつは良い。まさしくアカデミズムに通ずるジャーナリズムというか。何と言うか。アカデミズムというのはジャーナリズムを利用しその言説を裏づけ拡張し、アカデミズムを利用し良きジャーナリズムはそれが提起した問題意識を先鋭化させる、というサイクルが互いにとって健全なんではなかろうか。なんて無理矢理こないだの三井徹氏の退官シンポジウムの話に繋げてみてはみたが。

というか、シンプルにJ-POPを俯瞰して眺めるひとが思う様々な問題意識を余すことなく提出され、圧倒的な取材量によってその提出に対しひとつの「歴史像」を提起し、回答を出している。更には新たな問題提起を起こしている。J-POPというモノを議論の対象にするには、出発点として一番相応しい、そんな本だった。ここから生じる新たな問題意識に別の角度から「解」を出すのがきっと「アカデミズム的な仕事」なんだろう。今度はそゆ仕事がこの本を元に数多くでてくることを期待。ようやくJ-POPを議論にするためのスタート地点が出来上がりました、とかそんな印象。最近、著作権関連や音楽関連にそういう「よくまとまった問題提起本」が多いのは、これは、渋谷系という時代、90年代という時代が過ぎてひと段落ついて、さぁさて、と省みやすくなったことと偶然ではないのだろう。嗚呼、あと数年若ければ僕のソツロン作成はもっと楽だったに違いない。(面白みない部分もあっただろうけど。)

さて、中でも興味深いのがやはり、北田暁大氏の「広告としての渋谷論」と「渋谷系」の接続。鮮やか過ぎて目から鱗落ちる。北田氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』読んで、何かつながりそうでけど何処でどう繋がるもんかな、とぼんやりあやふやとイメージで妄想してた部分をすっぱり繋げられた感じ。しかも渋谷系をリアルタイムに知らない僕にとってみれば、リアルタイムにそれを体験している人間が、渋谷系を生きた人間への取材をしっかり行い、またそれを下にちゃんと議論を展開してる、てことで当時を知るにはとっても良い足がかりになる。年表が1個あればそれで渋谷系について理解でき、議論を網羅できる、と言う訳でもあるはずがない。こゆ事実と思考を橋渡しする提言は実に大事だ。余談。


ほんのちょっとだけ不満というか疑問が残るとしたら(そこが烏賀陽氏の文章の特徴であるんだけど)「邦/洋(英米)」という格差へのコンプレックスが見え隠れする、というかおもっきし前面に出ていること。これは僕という渋谷系以降の人間との、世代間のギャップによるものが一番大きいんだろう。けど、最後には喧嘩に発展した『音楽誌が書かないJポップ批評』でのBonnie Pinkへの潔癖なまでの「歌詞の英語が出鱈目だ!」という問題提起に示されている通り、ちょっとそれは「英米」という世界*1に引け目感じ過ぎてるんでない?てどうもその辺は首かしげちゃう。英語だろうが日本語だろうが音楽だろうが、意味があろうがなかろうがそれは即ち音楽の1構成を為す記号のひとつに過ぎない訳で、正しいとか間違ってるとかそゆ次元で議論するのはなんか語感で出鱈目英語駆使して載せて歌ってる唄い手が可哀想という気がするのだ。LOVE LOVE STRAWなんて、なんと英語の先生があえて出鱈目英語で素敵な曲歌ってたですわよ。こゆのって、そのポピュラー音楽の曲のコード進行はクラシックの理論で見るに禁則だから間違いだよ、て言われてるのと議論の土台としちゃ変わらないんでなかろうか。

別段、消費者や音楽屋は彼が思う程、国際標準のJ-POPを求めてはいないと思うし、むしろ洋楽と平行して聴くひとは、洋楽のオルタナティブとして洋楽風J-POPを聴いているのではなかろうか。なんて書くと、なんかいかにもポスト渋谷系な発言な匂いがしてヤだな。まぁ実感だから仕方ない。むしろ「本格派」として海外売り出そうとしてる宇多田ヒカルなんかは例外中の例外て気がする。宇多田の場合、どちらかと言うと「第二の故郷への帰省」て感じがしなくもないし。前にも書いたとおりTHE BOOM島唄現象は狙ってそうなった訳じゃなく、ローカルな日本のオトがたまたま多くの外国の人に歌われた、てだけの話だけだしね。

何が言いたいのかよくわかんなくなってきたけど、要は「J-POP」というのが「洋楽」に対置する1概念として成長したという事実と、日本人が文化における国際化を欲している、という考え方は、近いように見えて実は別の次元の話だって気がする、てことだ。特に大衆文化やサブカルなセカイにおいては。例えば、AIRアメリカでCD発売して全然売れなかったりしても「ふーん。まぁそらそうだよな。」て納得するし、海外でライブをやるって言ったって「あーまぁ国内ライブみたいな馴合いじゃない刺激が欲しいんだろうなぁ。」くらいにしか思わない。それはそれとして、僕は「日本人」車谷浩司が好きな訳だ。彼の繊細な日本語詩と時に歌謡曲や童謡なメロが大好きな訳だ。けど、洋楽のオトをパクッたあのオトもまた好きな訳だ。こんな自分の価値観と照らしあわすに、J-POPが世界の音楽市場でみて第2の市場がある、その大半が輸出されない「J-POP」である。これはこれでローカルな文化が成熟してる、て見ればとてもおもろい現象だと思う訳ですわ。まぁ70年代を生きたジャーナリストからすると違うのかもしれないけどさ。渋谷系以降の価値観で育ったジャーナリストはこういうある種硬派な価値観に対しどんな態度をとるんだろう。それはちょっと興味がある。

話が長くなったのでこの辺で。にしても、これだけの仕事されて819円は安い。名著ですよ。


*1:でも英米って世界にしたって、全世界の1地域だ。ただ単に音楽の輸出市場がでっかいてだけの話で。