上京が裂いた部屋で僕ら眠る。

こないだ『東京ライフ』-Lucky 13という曲がタワレコの試聴台でプッシュされてて試聴してみたのだけども、まぁ想像通りというか「東京で独り暮らしするちっぽけで寂しい自分」というイコンを表象した曲だった。悪くは無いのだけど、このテのテーマの曲って長い間歌い継がれていて(特に90年代か)世間に溢れているので、差別化するのもむつかしいよねーとか思いつつ聴く。

『東京ライフ』といえば、KANが発祥なのかな。寡聞にして未聴なのだけども、マンガ『ツルモク独身寮』-窪之内英策 の中で田舎に帰る新人工員のエピソードで引用されてて存在だけは知っている。同タイトルの曲だけでもタワレコのサーチで7曲見つかった。有名どころだと、LINDBERGが『LINDBERG XII』というアルバムの中で歌っている。やはり、希望を持って上京したひとが喧騒の日々に疲れ……みたいなモチーフだった気がする。LINDBERGにはこのテの「上京モノ」の曲が多い。渡瀬マキ自体が、三重県鳥羽市からシンガーになることを夢見て上京してきた、という経緯があるからだろう。けどそろそろそんなモチーフも飽和しつつあり、歌ってヒットに繋げるには限界に来てる気がする。聴き手にとってリアリティを換気させる曲であるためには、何かもう一工夫必要だ。シンプルなビートで「In TOKYO, my dream will come true.」を語ってはいそうですかと頷ける時代では、少なくとも今は、ない。東京ドリームや東京ライフを語るには、もうひと工夫というか、何か、語りのための装置が必要なのだ。


で、なんでそんな話をしているかと言うと、今日また、この上京東京モノを耳にして、お、と思ったからだ。Jungle Smile『東京、さびしんぼ』という曲。ラストシングルになる『抱きしめたい』のカップリング、事実上のジャンスマのラストナンバー。木琴とペダルスティールをフィーチャーした、だけでもキレイでは終わってないアレンジに、高木郁乃の書いた「私だけじゃないって知ってたけど、寂しいからあなたの温もりを求めてた」的な、赤裸々な詞がのっかっている。歌い方や、独特のリズムや間合いの取り方がなんだかエロティックで、とても好きな曲なんである。

で、今日ヘッドフォンで聴いてて初めて意識的に聴いてみたのだけど、間奏と後奏に、(恐らく)東京の街中でサンプリングされたであろう、ひとびとの会話がノイズのようにざざざっと入ってくるのだ。SEに街のオトを使うポピュラーソングは数多くあるけど、これだけアレンジとヴォーカルと歌詞とリンクしたサンプリングの使われ方ってなかなかなくて、それらリンクしてぴったりと合わさって耳に飛び込んで来ると、なんだか堪らない気持ちにさせてくれるのだ。オトでは雄弁なことほど言葉にすると非常に陳腐なんだって言い訳しつつあえて陳腐なフレーズ言うけど、東京と孤独、というイメージが実にリアルに立ち上がってくる。雑踏=多数の中で、主人公である彼女は「ひとり」であり、隣に歩いているそのおとこの存在すらも、彼女からは切り離されている、というコンテキストがざーっと沸き立つのである。うざい語りでごめんなさい。要は好きってことだ。気にしないで下さいな。

Jungle Smileはこうやって装置としてSEを(現実音のみならず楽器を含める様々な音をSE的に使い)巧く想像力を書き立てることってのがたまにあったりして、そゆ芸の細かさがまた大好きだった。『同級生』という佳曲があり、その曲は高崎線の尾久〜上野間でサンプリングされたという電車の音で始まるのだけど、歌詞はしっかり「もうすぐ上野駅/さよなら言わせて」という上京を、もとい状況を歌っている。そしてそのイメージは、『同級生』のA面曲だった『おなじ星』の「この東京で/交差点や駅のホームとか/あなたと私はすれ違ってたりしていた」というフレーズとぴったりリンクしてくるのだ。こゆのを聴くと、あー神は細部に宿るよねぇ、とか思ってしまう。そして、こいつもやっぱり上京モノだったりするのだ。都会のノイズをサンプリングすることで、それを都会という中での歌い手の描く物語の中の孤独を雄弁に語る装置としているのだ。


サンプリングと東京。とかなんとか、て結ぶ付けて考えてみるとなんか頭の中がおもろくおかしくなってきた。読んでるひとはつまらないだろうけど、も少し続けよう。


他になんかそんな曲の例、つまり東京をサンプリングで切り取り物語るという曲あるかなぁとか思ってみたら、これも昨日聴いたpal@pop高野健一)の曲が思い当たった。『空想X』と名付けられた彼のデビューシングルは渋谷という街の雑踏のサンプリングから始まる。そこからなにやら祝祭的な和音のコーラスが包み込み弦が絡んで彼のリリックが始まる。彼は「爆弾あったらひとつ使っちゃう/みんな壊しちゃう/渋谷を丸ごと」と、渋谷と言う光景について語るのだけども、渋谷の住人たるコギャル(?)の肉声で持って、その彼の語り自体を打ち消す。「でも人がいた方が楽しいよね/色んな人に出会えるし/いないじゃいないで何をしていいかわかんないしね」。これも、雑踏という不特定多数の中での自分、という立ち位置をサンプリングで雄弁に語っている。但し、『東京、さびしんぼ』と違うのは、この上京を(面倒だから放って置こう誤変換)柔らかい生音で包み込み、美しいコーラスや弦でカデンツさせることで、「歌おう時代を壊すメロディー/気もちいい社会のあり方を考えよう」というメッセージの強いフレーズをうたっていることだ。そこにあるのは東京という空間に感じる閉塞感や孤独感をただ語るのではなく、そこから来るそれらの感情を妥結させるためのツールとして音楽、そしてサンプリングを用いる「語り方」だ。歌詞にも出てくる「渋谷センター街」で「他者」が背中を向けて彼とは逆方向に向かう中、目を閉じ空を見上げポケットに手を入れながら立ち止まっている彼のジャケット写真*1では、背中を向ける他人を全くの他者とは切り離せない高野健一の姿(イメージ)が「サンプリング」されている。


更にもう1つ、このような東京という音をサンプリングすることを「遊び」という視点で捉え、徹底的に茶化した曲にSUPER BELL"Zの『MOTER MAN』がある。秋葉原から南浦和へ移動する旅路を、駅員アナウンスのサンプリングによって語るその楽曲は、見方によっては鉄ちゃんによる物真似ネタなのだけど、見方によっては、移動する自らの視点を軸に周縁の音を語るというユーモラスな音楽実践である。視点が一人称的な『東京、さびしんぼ』、二人称を加えることで批評的な意味を持たせた『空想X』のいずれでもない、主語のない三人称的な音楽がそこには流れている。(この曲の歌詞に一人称はないし、駅員は何人も入れ替わる。しかもその入れ替わる駅員は1人のヴォーカリストによって「演じられる」。)これも、見方によっては、東京という街を切り取る1風景として機能するサンプリングの実践のひとつだったりするのだ。

但し、『MOTER MAN』は『東京、さびしんぼ』のような上京ソングではなく、下り列車の歌であることに注意したい。終着点は南浦和である。それが北の電車交通の玄関である大宮でもないとこにもまた注意したい。つまり、『MORTER MAN』は、上京者の里帰りソングでもないのだ。


或いは、東京、ていう存在は、サンプリングされ相対化された現在、絶対的な場所ではなく、ただの寄り道する場所、一時的他者を求める場所、或いは通過点でしかないのかもしれない。上京者にとっては「終着点」に他ならなかった、孤独感あふれる、にも関わらず執着せずにはいられなかった場所が、その存在感を徐々に変容させているのかもしれない。くるりの『東京』を聴いてみると、なんとなくそんなことをふと思う。アレは、台風の憂き目にあったフジロックフェスの帰りに、東京の友人の家に泊まったずぶぬれおとこの独り言のような歌であって、彼はあくまで京都の人間だったのだ。そして、上京者の孤独を歌った、新潟から歌手を夢見て上京した高木郁乃がヴォーカルをつとめたJungle Smileは、その活動を、2002年12月に止めたのだった。pal@pop も最近活動の気配がない。東京に夢を見るのも、孤独を語ることで絶望の中のキボウを見出すのも、大変な時代なのかな。て、なんとなく思う。そんな神奈川、さびしんぼ。*2


*1:http://www.palatpop.com/のトップ画像参照。

*2:去年の秋にex.Jungle Smile高木郁乃がCMソングで菅野よう子の曲歌ってたの今日知ったよ。テレビ観ない人間はこれだから困るやね。http://www.grandfunk.net/top.html菅野よう子のとこからハーフセンチュリアのCM。最近、高木郁乃で検索辿ってくるひとが多いから、今更ながら触れておきます。そしてこの一連の文章は、彼女のささやかな復活の祝いに換えて書いてみたものです。