五月革命。

僕にとってWebは思いつきのクリップと、ささやかな実験的実践とプロモーションのための手段に過ぎない。コミュニケーションは結果的に生まれるモノですな。なんとなく。

なんてのはさて置き。増田聡氏が「BLOGというアーキテクチャ」の話をある機会にしていて、また、Webだ活字だという議論になったのを想い出し、そこから延長して、というか唐突にふと思いついてみたことなので、適当に聞き流して欲しいのだけども。ブログって、市民革命的なツールよね。と。

と言うか、これは旅行先のひろしま美術館にて、フランス革命という出来事が芸術作品を貴族から市民に開放したという歴史的経緯についてふと想い出し、そこからつらつらと妄想してたらブログ作法トークショーの内容を思い出した、という順序が正しい。唐突に「ブログは市民革命だ!」なんて、まるで下手な社会学者もどきなことを書いても読者が混乱するだけではないか。

つまり順序はこう。市民革命が美術作品の有す権威を市民の下に解放したのと同様に、ブログの誕生は出版メディアの有す権威を市民の下に解放したのではなかろうか。という単純な発想から全ては始まる。

ブログというシンプルなアーキテクチャの誕生は、それまで研究者/ライターの方々が紙媒体上において特権的に有していた「文章コンテンツの発表*1」という行為への参入障壁を低くし(壁をぶっ壊す、くらいは「革命」なので言っておきたいのだけど、現実そこまではいってないと思うから控えめに書いとく)、例えば僕のようなフツーの人間が簡単に「文章コンテンツの発表」という行為を実践をする場を与えてくれる。かつてWEBサイトつくって文章の発表やってたひともたくさんいたけど、いちいちHTMLを組んだりCGI立てたりなんて技術的な手間が一気に省けたおかげで、老若男女有名無名問わず、様々な人間の「文章コンテンツの発表」をブログは可能にした。

更に言うと、例えばはてなというコミュニティの誕生は、こういった「文章というコンテンツを発表する権威」を有していた人文系研究者/ライターさんと同じ土俵で、かたちの上では(質はとりあえず問わないことにして)僕のようなフツーの小市民が文章を発表し、更に議論をすることを可能とした。パソ通の時代からあったじゃん、といわれるとそれまでだけど、パソコン通信やインターネット黎明の頃の参入障壁の高さを考えると、15分弱で自分の「サイト」を持ててしまい、文章書いて数分立てばキーワードリンクで人が辿ってくるという今のはてなの構造は断然お手軽だししかもコミュニティの形成と発展の速度が尋常でないし「革命的に」開かれている。あらまぁなんて素晴らしい。

ところが、である。僕がぼんやりひろしま美術館の企画展示を眺めてて思ったのはこんなことだった。結局、一端は貴族から市民に解放された芸術作品も、結局は「お芸術」という権威の号令の下、宮殿に代わる密室(公共施設やお金持ちな会社やエグゼクチブな方々のところ)に収蔵されて、滅多に人の目に触れないところへと集められていったのではないか。それは芸術作品の「アウラ」を保つための手段という意味合いと、王政に代わる、資本主義、民主主義という新たな「権力」の誕生を意味する訳なのであり、やはりまた、芸術作品はある場へと集約し、芸術作品というコンテンツへ触れる「壁」は構築されていったと歴史は語っているのであります。

歴史は繰返す、とするならば、ブログという革命により小市民に放たれた文章は、結局、何処かへと収蔵されていくのではなかろうか。例えば、ブログ発(或いはMixi発……まぁなんでもいいんだけど)の書籍の出版、なんてビジネスモデルの流行は、一端は開かれた文章コンテンツの発表という場が、再び、紙媒体へと還り、出版メディアに帰属することを意味する訳で、安易にそういう「収蔵」を出版業界が繰返すならば、それはブログというアーキテクチャが真に革命的である意味を削いでしまうのではないか。等と妄想は膨らんだ。元々小市民的誇大妄想が趣味なので、その辺りは赦していただきたい。それにしても、ひろしま美術館の「りんごの秘密展」は良い仕事をしている。

いっちばん極端でわっかりやす過ぎる例は、2ch発の純愛物語ベストセラー『電車男』のヒットだと思う訳だけども、2chという並列的なコミュニティの差異の戯れから生まれたこのコンテンツが、活字本、マンガ、演劇、映画等々、様々な既存の縦型な「権威的メディア」へと変換されていく様を眺めてみると、どうにもこのような妄想が膨らんでしまって仕方ない。結局のところ、既存のメディアは、単にWebコンテンツを「再利用」しているだけではなく、リサイクルすると同時にそれを「収蔵」しているのだ。そして、その権威と、Webコンテンツ収蔵の正当性というものが、古くからある既存メディアを強く保護する現行の「著作権制度」に拠って維持されていくであろうことは、敢えて妄想するまでもない事実だ。

現在の資本主義社会において、参入障壁は低いままでは終わらない。何故なら、それはカネを生まないからだ。カネを生むにはそれを囲い込み、一定の権威を保ち、その権威に対し対価を支払わせるしかない。これがコンテンツ業界の生き残る仕組みなのだから仕方ない。そうすると、かつてフツーの小市民であった数多くの書き手が、突如として、どんどんと紙媒体という密室に収蔵されゆくことも考えられなくも無い。そして、本来小市民だった書き手がそのような権威に「青田刈り」をされることになれば、誰かが何処かで言っていたような「BLOGやMixiやWebから出る本は全く面白くない。」という状態にだってなりうる。参入障壁が低いところにあるコンテンツのクオリティなんて玉石混交で保証できないからだ。僕は決してWeb発の本が全てが全て面白くないとは思わないのだけども、或いは、(証明する術はないのでなんともいえないけど)その誰かが言う通り、既にそうなりかけているのかもしれない。

とかなんとか考えているうちにミュージアムショップで買い物を済ませた後、広島市民球場の横を歩いていたのだけども。あー市民かぁ。革命かぁ。革命が王政復古を生むことだって、専制を生むことだって、ある権威をより権威化することだってあるって、歴史は教えてくれるよなぁ。なんて思いながら原爆ドームを眺めに僕は向かったのでした。市民球場では、「市民」球団広島カープ対「(旧)堤王国」西武ライオンズ交流戦がまさに幕を開けようとしているところだった。市民と王政と革命。ブログが解放した何かと、ブログがもたらす経済的な何か。一体、権威は何処へと転がっていくのだろう。アーキテクトが求める先は一体、なんなんだろう。少なくとも、トークバトルだけではないよな。とは思うけど。


*1:以下、「発表」の下には、「文章コンテンツの加工、ログの保存、他の文章への介入、デザイン等々」を含む。