若者たち。

http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2005/04/post.html

母校の教授さん、M井氏が新入生歓迎会の感想で、かくの如く語られている。長いけど引用。

みんなJ−POP好きなので何となくいじめたくなり、「こんな中途半端なものは文化じゃない」と難癖をつけると、みんな「そんなのは個人個人の趣味ですよ」と口を揃えて反論する。「そーじゃないよ。何でも鑑定団と同じで、本当にいいものが分かるには知識も必要だし時間がかかるんだよ」と決めつけてやると、悔しがって「そうかもしれないけれど、だからこそ私たちが共感できるんじゃないですか?」と言い返してくるので、「等身大とか共感できるのが大事とか言うこと自体恥ずかしいことなんだ」というようなことを言うと、これまた全員「いやー、それは違いますよ」とぷんぷん怒っているのが面白い。(中略)その部分だけが「人それぞれの価値観」で許される部分だと思い込まされているし、その部分の「共感つながり」が人間関係を作り上げているのだから、そこを突っ込まれるとムキになって反論してくるのだ。逆にぼくはそこに切り込んでいきたいと思っている。(中略)そこに切り込んでいかない限り、文化について教えることなんてできるはずがない。

なるほど、大体6年ほど前、僕はすっかりいじけたうちのひとりだったなぁ今考えると。「お前らの聴いてよいと言ってる音楽なんてSMAPの音楽*1と何も変わらないじゃんか。」「そもそも何でヴォーカルが必要なんだよ。」「何で判を切ったように4拍子なんだよ。」等々と大学1年の頃散々言われ、全く反論できず、それでもSMAPと自分の好きな音楽は違う、と信じて疑わず(笑)半ばいじけてたような記憶がある。その上、洋楽至上主義者の同期からは、この曲も知らないのかとかこの曲パクリじゃんだとか言われたのだから、J-POP好きとしてはなかなかせつないモノがあったりもした。なぁなぁなぁ(嘆き声)。

さておき、今こうして考えてみると、実際ある側面で見れば全く彼の言っている問題意識てのは特に過激なモノでもなくむしろ重要、というか当然なことな訳ですわな。それに気付いたのは、大里氏の授業「現代音楽論」を受けて散々音楽への問題意識を叩きこまれアタマの中で色々と叩きあげられてからだったのだけども。そんなこんなで、「決め付けてみる」ことで若者たちを挑発するM井氏の術中にすっかりはまって、というか自分の好きなJ-POPを語る術を身につけるべく「文化の研究」に切り込んでいってしまった過去をふっと思い出したのでした。

そして、僕はそのJ-POPが持つ「等身大的共感」と、そしてそれをもたらす核の正体に切り入り、その「文化」のあり方を「現在性」と共に語りたい、なんてことを敢えて言ってみたりしたら、彼はまた鼻で笑うようなモーションを見せるだろうか?まぁ、ともあれ、ポピュラーカルチャーについてアカデミズムな文化研究的シコウするには、それなりの覚悟と勇気が必要なのだ。てことらしいのだ。古いモノの全てがいいものではないのと同様に、新しいものの全てが、評価に足らないモノかと言えば、決してそうではないはずだし、更にその現在性について語ることは決して無意味ではない。少なくともそれだけは、間違いのないことだと思う。なんて決め付けて言ってみたりもするこのごろ。ごろごろ。


*1:別段SMAPの音楽がどうこうと言うわけではなく、ロックとかなんとかてのとアイドルポップスの間に本質的な差異はない、という文脈で喩えとしてそんなことを言われた記憶がある。確か、僕に直接ではなく、VELVET UNDERGROUND好きの同期にそう言い放ってた。僕の受けたショックに比して、彼の受けたショックは云倍だったに違いない。