no self control, but now self controled.

ふと、音楽って自分語りと不可分になりがちなメディアだよね。なんてことを思ってみたりもした。

絵画は静的な「モノ」だから、それについて客観的に語るのは簡単だ。写真なんてもっと客観的な平面だからこれも然り。言うまでもないけど、時間ゲージツ以外のサクヒンは客観的に語りやすい。

次、時間芸術。これを客観的に語るのって、それなりにリテラシもってないとなかなかむつかしい気がする。時間の経過ってのは、「自分」とゆう主観と不可分なモノであって、どうしても「ある一定の時間を〜というサクヒンと共に過ごした。」という文脈が何処かに入り込んでしまうからだ。

それでも、客観的に語られる時間芸術もある。フィルムも、それは記録されることを前提とされているメディアだから、それを分析して客観的に語るのはまぁ比較的簡単だ。演劇も、戯曲というテキストがあるから、これを客観的に語るのは出来なくもない。ところが、音楽を聴取する、となるとこれは客観的に捉えるのはけっこ困難だ。視覚芸術でないメディアを客観的に知覚する、というのはどうしたってむつかしい。

例えば、おクラシックな音楽においては楽譜というテキストを基に解釈をしてるから客観的な解釈ができなくもない。けど、楽譜を基に音を聴くことのできるエリートな聴取のできる人間なんて何時のご時勢でもそう多くの割合はいないだろう。楽譜というモノを重視しないポピュラー音楽に関して言うと尚更で、客観的に語ろうとすると、「だれだれが〜を演奏った。」という状況記述をせざるをえなくなる。ところが、この状況記述だけを見ると、「評」にはなりにくい。ので、「評価」という要素をそこに入れ込むことになる。けどこの評価の尺度を何処に求めるか、てなかなか難しい。基になる計り(客観的なテキスト/楽譜はないし、歌詩は断片に過ぎないし、CDと比較するのも芸がない。)がないから。だから、自分の過ごした時間の「体験談」的要素が多かれ少なかれ出てくる。それで、「体験した音楽」と「自分の体験」とが混濁した文章が表に表れやすくなる。「体験」という主観を通じて「自分」てのと「音楽」てのが結果結びついてごっちゃになるのね。*1

これはライヴ/コンサートにのみならず、例えば携帯オーディオプレイヤーによる聴取にも言えることで、何時でも何処でも音楽を聴ける、という環境が与えられることで、自分のある生活の1場面で流れた音楽てのと、そこにいた自分、てのが混濁しやすくなる、という仕掛けがあるような気がする。あーあの日あのときあの場所でこの曲を聴いたねーみたいな。街に溢れる音楽や歌番組だってCMだってそうだけど、やっぱりいまや数千曲を簡単に持ち歩けてしまうiPodをはじめとする携帯プレイヤーの威力にはかなわないだろう。*2

こうして、音楽のテキストからの乖離、そしてある特定の<場>からの乖離を契機に、音楽はますます主観的なモノになってる。そんな主観的なメディアをいかに客観的に語るか。現在、音楽評には常にこんな問いかけが背後にあるような気はする。だけどこれをやるのは先述した音楽の特性ゆえむつかしいから、多くの方々の文章がまたどんどん主観に流れてく。一度流れ出すと主観てのは留まることをしらない。そんなこんながBLOGアタリでどんどん拡散してく。と、まぁそんな図式をぼんやり描きながら文章書くのも飽きたし眠いので寝ることにします。何が言いたいのかよくわからんくなってきた。すっげ当たり前なことを当たり前に書いてるだけだねこのテキスト。まぁいいや。主観的な音楽語り者は眠ります。笑って見逃してください。目に溜まった涙は、花粉症のせいです。あくびのフリじゃありません。おやすみなさい。


*1:とりあえず、このアタリのシコウ断片は、ケージ等の現代音楽やサウンドアートの聴取、サウンドスケープ云々をシコウの対象から除外して書いております。

*2:因みに、映画や演劇は視覚メディアのためそうはいかない。携帯して鑑賞しながら歩いてると事故に遭う。