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『音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ』-増田聡・谷口文和、読了。

いや、元来遅読な僕な訳ですが、一気に読ませて頂きました。平易なことば遣いでありつつも、決して書いてあることは平易なことばかりではないのに、つかえることなく、すらすら、真っ直ぐに読めてしまった。しかも理解の遅い僕にも理解できるような段階がちゃんと踏まれて。いや、良い本を手に入れたモノです。これは、今、出るべくして出た本だと思ったです。

ふと読んでて、『サウンド・エシックス』という小沼純一著の新書を思い出した。サブタイトルが「これからの『音楽文化論』入門」で、なんとなくコピーのにおわすニュアンスが「未来形」だし、実際読んでみても、扱ってる問題意識が重なってるので思い出したのだけども。

そぅ、「問題意識」。『サウンドエシックス』が出たのが2000年。それから5年の時間が経ったということだけども、5年の間に、ずいぶん議論が練られてきたなぁ、という印象を『音楽未来形』を拝読していて思った。『サウンドエシックス』はどちらかというと、まさしく音楽を巡る諸問題に対する問題提起の本という印象で、議論の掘り下げは殆ど行っていないところに特徴と価値があった。実際、そんな問題提起を目の前に突きつけられて当時大学2年だった僕は偉く興奮して、この問題意識のうち何かを抽出してどうにか形にしてやりたい、と思い、最終的に<パクリ>というテーマでソツロンを書いたのだけども、ディジタルという技術への問題意識が未だ一般に大きくは波及しておらず、MP3で音楽を楽しむというスタイルも一部のリスナーのコアな嗜みでしかなく、ブロードバンド化も始まったばかりの当時の時代背景を考えると、この「問題提起」に対し、どういう解を見出したモノか、というテーマは非常に重かったように思える。音楽の著作権の問題だって今ほど過激ではなかったし、今ほど「音楽配信ビジネス」というのがリアリティをもってなかった時代の産物だ。「着メロは音楽か?」という『サウンドエシックス』の帯コピーの問いも、解を出すには時期的には未だ早かったし、そいう「ディジタル化していく音楽に対し、メディア論的に(美学や社会学的視点に偏らず)ひとつの解を出そう」という意識自体が音楽研究者の間に余り浸透してなかったのかもしれない。

だけど、2005年という<今ここ>に向かうにつれて、ディジタル化とブロードバンド化が急速度で進み、結果、ディジタルコンテンツの著作権の問題が表面化し、結果コンテンツビジネスが消費者に対し規制の度合いを加速度を上げ強め、その反面iPodは大ブームで音楽配信大迷走、という世間の情勢を追いつつ、それをしっかりと纏める議論が多く出てきた。そのひとつが名和小太郎の『ディジタル著作権』だったり、岡本薫の『著作権の考え方』だったり、或いは津田大介の『誰が「音楽」を殺すのか?』だったりしたし、PE'Zの『大地讃頌』の回収騒ぎをめぐる議論や服部小林の『どこまでもいこう』裁判をめぐる議論だったり、数々の<パクリ>糾弾に関するネット上での議論*1だったりするんだと思う。要は、2000年に曖昧なまま問題提起されてた音楽に纏わる諸問題が、問題意識として少なくないリスナーに根付き始め、共有されるようになったのが、03〜04年だったと思うのだ。そして、その総括として、『音楽未来形』はやってきた。と考えると、なんだか時間軸の流れ的にしっくりくる。増田聡氏(id:smasuda氏)によるあとがきの冒頭のことばが、その事実を物語ってるだろう。

音楽をめぐる環境は劇的に変わりつつあるのに、それを語り、議論する言葉の方が追いついていないのではないか――本書は著者たちのそんな思いから構想された。

逆に考えると、ようやく、それだけの「言葉」が語れるだけ材料が揃った、てことだ。時間がかかったなぁ、と思うけど、議論を慎重に前に進め、更新するためには、必要な時間だったのかもなぁ、とも思う。『サウンドエシックス』からの5年間。「問題意識」の浸透、共有、そして1つの回答へ、と至る5年間。

ともあれ、そんな過去から2005年という<今ここ>に至る様々な音楽をめぐる状況を的確に捉え、しかもただ整理するだけでなく、終盤の音楽の未来のあり方の提起まで至る流れが圧巻だった。言いたい結論だけ先走って語りたくなったりする衝動をヒッシに堪え、周到に議論を積み上げ、結果、最後の結論が説得力を持つまで至るその文章の構築具合に感動した。しかも平易な言葉でそれを語れている、てのが何より素晴らしいことだと思った。今時分、結論だけ先走る文章や(僕の文章のことだ)、難しいことばをなんとなくちりばめてなんとなく分かったような分からないようなオーラだけをかもし出し読者を煙に巻く文章(僕の文章のことだ)は幾らでもあるけど、丁寧かつ分かりやすく、更に議論を前進させようとするなんて良心的な文章なんて、残念ながら世の中そうそう多くは無い。数少ないそんな文章に出逢えたという奇跡がこの胸に溢れてる。お勉強の本のつもりで読んだ本なのに、なんだろうこの読後の爽快感ったら。


で、なんでそんな爽快で痛快だったかと言うと、やっぱりこれらの文章があとがきを読まずとも、「世間に無いなら自分らが書く!」というDIY精神で書かれてるということに気付けることだったりして、そいう動機でかつて文章を書いていた自分を思い出して、このままじゃいかんなぁ、とちょっと自身を鑑みてしまうのでした。嗚呼、ソツロン書いてた時期は確かにそう思ってたんだよな……。勿論、本書において、剽窃をめぐる議論がしっかり「更新」されていることは無視できない訳で、何時かもっと掘り下げたい、と思う訳ですが。誰もやらないなら、なんて宣言しちゃうとちょっとアレなんで、ほどほどに胸に刻む程度にしときます。痛快ブギウギな文章、書きたいすわ。いやはや。余談です、余談。


*1:これは客観的にみても、ちゃんとされてるかはかなり疑問だけど。というか、拙論文以上の議論は殆どされてないだろう、という自負はなんとなくある。手前味噌ですみません。http://mmcs.edhs.ynu.ac.jp/~askaw/sotsuron/