「どうでもいい」とかそんな言葉ばかりのプラスティック・ソウル。

DVD『BRAND-NEW MOTOR SHOW』-MOTORWOKSを観終えた。ドキュメンタリの編集が巧いなぁ、と思ったり、オトがやっぱりしっかりしてるなぁ、と思ったり。『Missing Piece』の英語仮歌かっこいぃなと思ったり。

石田小吉黒沢健一は割と露出多いから彼らの大体考えてることがそこそこ掴めててまぁそんな感じかーと眺めてたんだけど、スピッツ田村関連のコメントが面白かった。水やバナナ撒いてるくせして一番このバンドに客観的な存在て、田村なんだよな。とつくづく思う。それは、勿論草野マサムネという絶対的存在を中心に据えるスピッツという場をホームに持っているからなんだろうけども。

雑誌とかも含んで彼の発言をスクラップするとこんな感じ。「(何故MOTORWORKSをやってるか)誘われたから。イシダ君はものすごいスピッツのリズム隊評価してくれてて。」「MOTORWORKSスピッツの往復レコーディングでそれぞれフィードバックがある。」「他のバンドやるとどっちが良いとかじゃなく、草野の凄さが分かる。」「MOTORWORKSスピッツで自分がやってることは変わらない。」「イシダ君から認められたいから、MOTORWORKSやってるのかもしれない。」

つまりはこんな感じか。「情熱派音楽野郎石田小吉に自分のベースが認められる。→スピッツのリズム隊が認められる。」=「スピッツの音が音楽に見地のある人間に評価される。→スピッツの音は間違ってないと確信できる。確信したいからバンドやってる。」


やっぱり、スピッツというバンドは特別なんだよな。音が凝ってこようがなんだろうが、スピッツスピッツだし、というか、マサムネはマサムネであり他に代わる存在なんてない。三輪テツヤなんて極端で、ギタリストとしてスピッツの他で演奏するなんて考えられない、と語ってるしね。

そゆ特別な存在と特別な空間を造れて特別な何かを他人に与えられるてのはなんたる幸せなんだろうか。最近、スピーカーからは「春の歌」が全快で流れてる。比例して鼻がくすぐったい。ところで、

平気な顔でかなり無理してたこと/叫びたいのに懸命に微笑んでたこと/朝の光にさらされていく

どうして居ても立っても要られないほどのうずうずキラキラポップソウル全快な曲にこんな影をさりげなく混ぜられるのだろうかマサムネという人間は。と、何時も聴く度思う。ポップスの光と影。秋と冬が残した未練に出逢う季節がまた、やってくる。