tea for one.

Y国立大学マルチメディア文化課程の木下長宏先生の退官記念パーティに参加してきた。ゼミに参加してた訳でもなく、真面目に授業出てたわけでもないけど、文句なしにお世話になった先生、てことで、出ない訳にはいかない。やはり色色と思い出しながら思いながら、そっと賑やかに時を過ごす。

マルチの中で「教育者」といえば、僕は木下さんくらいしか知らない。というくらい学生への面倒見がよく、また基本的には学生の自由にやらせつつ挑戦心を常に持たせる、という自身の教育方針への妥協を許さない方だったと思う。他にも教育者的な方もいなくもないとは思うけど……Mさんや唐さんはどう間違っても教育者ではないしむしろそうでないとこに価値があるのだし、大里さんは学生の面倒見の良さはあるけど、それよりご自身への面倒見がいかがでしょう、という面が無きにしも非ずだし……げへげへ……。べ師は教育者ではあるけど学生に要求するハードルがどうしても高い……げへげへ。

さて置き、そんなこんなで、そんなお方が定年退官という制度的なアレで去る、というのは、課程は勿論、大学への大きな損失だと思う。なんつか、唐さんの退官のときもそうだったけど、マルチにとって、ひとつの時代が終わったのだなぁ、て感慨が溢れてくる。

僕自身も、近すぎず遠すぎず、という距離感で、だけど4年間通してずっとお世話になった。木下さんて、僕にとっては常にサジェスションを与え続けてくれる方だったんだよな。例えば、真面目に出れてなかったけど、授業ひとつ出ると、何かひとこと、心に残るひとことを、ふと何かの啓示のように発するようなことがよくあった。毎回そうなのだ。だから、どうしてそんな僕に何か気付きみたいのを与えてくれることばを持っているんだろう、と、研究室に用も無いのに通った時期もあった。先生には迷惑だったかもしれないけど、大学2年とかそんな当時はそれを見つけようとヒッシだったんだよな。ともあれ、あの研究室の上質の葉巻タバコの匂いとか、本の匂いとか、なんだか忘れられない。鍋とか料理やら持ち込んで宴会もよくやった。木下研にはとにかくひとが集まった。一種のサロン状態だったなぁ、と回想すると思う。ほんと、色んなひとがいたし、それがなんだか楽しかった。

その他、「沖縄行って障害者施設と障害者が手伝ってる窯元(金城次郎さんとかの登り窯の隣ででかい登り窯使って焼き物焼いてるのだ。)の調査いってレポート書かないと単位あげないよ。」という授業を受けて沖縄行って、何故かそのままゼミ旅行に出てた木下研の面々と合流して3泊4日の調査旅行のつもりが1週間滞在旅行になった、なんてこともあった。そんな中で同期の木下研生と飲み明かしたことやら、その旅行で沖縄という土地から与えられた様々やら、何もかもが変えがたい経験として自分の中に残ってる。授業で紹介された岡倉天心の『茶の本』には滅茶苦茶入れ込んだ。後からベ師にレポートの参考文献リストに『茶の本』というタイトルを見つけられて、にやり、とされたこともあった。不思議と、何かが繋がってたのだ。なんだろうな。


何を特別に教わった訳でもない。だけど、何かに気付くヒントを常に与えてくれた。そんな先生だった。今でも僕の美学的価値観に対する接し方として残ってる、先生が授業でふと語っていた基本的な、だけど大事なことばが刻まれている。

「芸術は何を表現するかではない。何をいかに表現するかが大事なんだ。」


ささやかだけど大事なことってたくさんある。それにきづかさせてくれる環境というのが、真の教育環境だと思う。Mさんが京都から連れてきて7年間、本当にお疲れ様でした。というか、未だ未だ在野にて、研究は続けられる、とのこと。


「大学を離れても、文章を書くことを通して、講義は続けられるし、研究は何処でも続けられる。ボクだって、まだまだ勉強不足だ。」


そう、木下さんから教わりたいこと、教わるべきことは、まだまだある、そんな気がする。けど今はこの門出にひとこと、お疲れ様でした、と呟いて、文章を閉じるとしよう。そう、勉強は何処でも出来るんだよな。肩書きがなくても学問は、出来るんだよな。99%の好奇心と、1%の閃きがある限り。車椅子を一生懸命転がして縦横無尽に走り回るその姿に、背中を押されてる思い。しみじみつくづく。今後とも、宜しく御願い致します。