バナナはOK、ミカンはダメだよ。

世間様はそういうところには厳しいらしい。イシダが言ってた。

謎に満ちたマニアックなイントロはさて置き、オレンジレンジパクリ疑惑……id:nanashino:20050111#p1経由。*1。パクリ糾弾パクリ糾弾……て、またこんな話か。なんか追うの疲れてきたんで降りていいですかー先生ー。(て、降りたら2/3『ディジタル著作権』読んだ労力が全てムダになるぜ。まぁ全くムダてことはないんだろうけども……。)

http://www.medianetjapan.com/2/20/music_audio/toor/

つか以下、素で言ってよいですか?無知ですみませんでした。

■以心電信は、タイトルだけみて、YMOのカバーだと思ってました。よくよくYMO聴いたら全然違うじゃん。……例えるなら、Spiral Lifeの「GOING UNDER GROUND」みたいな?

■その他、何処かで聴いたことあるフレーズについては、純粋に技法としてサンプリングを駆使してるのだと思ってました。とある曲のイントロがハルカリぽく聴こえたせいか、ヒップホップの技法を咀嚼したのかな、と。


けどさ、このサイトで糾弾されてるよなメロディてはっきり言ってベタもベタでストレートに分かりやすいコード駆使してやればできちゃうようなモノであって、糾弾も何もないよなーてのは正直な感想。だって、例えば『以心電心』のサビなんて、I-Vの繰り返しだけでできちゃうじゃん。木村弓千と千尋の主題歌に対して「パッヘルベルのカノンと進行同じだよね。そういうのとパクリの関係てどうなの?」と言ってるのと同レベルだと思う。*2メロのリフレインてのはえてしてシンプルになりやすいから、鼻歌ふふーんて歌ってたら自分の知ってる曲に近くなったてことも十分あるんじゃないの?と。まぁ確信犯的にパクってた方がむしろ僕は彼らを尊敬しますけど。


……しかし、同リンク経由で辿りついた下リンクの発言はやはり新人類的な感覚を感じる。動物的パクリ、てか。

オレたちの中の合言葉は〈パクろうぜ!〉です(笑)。

http://www.bounce.com/interview/article.php/1081

おー。この発言まさしく、今は亡き渋谷系、つかフリッパーズの名言「僕らはパクリをやっている。」の再来ではないですか。とりあえず思うのは、思想的な浅さ深さはともかくとして、彼らがあけっぴろげにこんな発言をしたことに対し、「フリッパーズスパイラルライフは愛あるから許せるけど彼らは浅いよねー。」て言うのはちょっと差別と偏見だと思う。てことかな。B'z辺りにも言えることだけど(B'zには、ビーイングが云々とか、商業主義が云々とか、そゆ偏見交じりの議論も混じるので、余り純粋にパクリを論じる時には取り上げたくないのだけども。)、聴いたことある音楽をひたすら再演してるて点では、根本一緒だろう。それに愛情やらサンプリングによるシミュレーショニズムやらサウンド・オブ・マイ・ジェネレーション*3やらなにやらという理屈くっつけてるか単に初期衝動でやってるか、てだけの違いで。

……ということはアレよね、90年代後半、渋谷系のシの後、「J-POP」という概念が完成形を見た後、根本的に<パクリ>と聴取者、更にパクリの実践者の関係性は殆ど何も変化してないということよね。昨今のカバーブームを見ても理解るけど、むしろそいう90年代後半以降の「J-POP」という概念は、「強化」されつつある気がする。一見市場では売れ行き伸びてないから「J-POP」は様々なカテゴリに「分散」してる気もするけど、そうじゃなくて、90年代後半以降「何も変わってない」からこそ、結果、市場が分散し停滞してる気がする。同じことやってたら新しいことやってるメディア(つまりはケイタイ。くらいか。)に消費者が飛びつくのは当然だろう。面白くないんだもん。

話とぶけど、最近、石田小吉がひたすら「J-POP」ということばを嫌う発言を雑誌で述べ、なおかついMOTORWORKSでカコの「洋楽」ロックの再演(カヴァー)を実践してるのは、そのことへの反動という気がしなくもない。あくまで反動であって、新しいことをやってる訳ではないし(むしろSpiralに戻ってない?つか、思想的にはモロにスパイラルライフサウンド・オブ・マイ・ジェネレーションまんまだよMOTORWORKSもスクーデリアも。)、その実践は結局「J-POP」という枠組みの中で行われてるに過ぎないと思う。「J-POPて言い方がダメだよね。日本の音楽シーンダメにしてる。」といいつつ、彼らだって演じてるのは「J-POP」だったりするのだ。それは市場の仕組みとか販売の仕組みとかに負うとこも多いけど、実践者の側の意識にも原因はあると思う。つまり、渋谷系がサンプリングをがんがんやって、ある原曲を元ネタとしてつかって組み合わせて音楽やることへの抵抗感を払拭してしまった結果、「がんがんパクろうぜ。原曲へのアイがあるから大丈夫。」という風潮ができてしまった、というのは大体拙論文で述べたことだけども、払拭されたらされたまんま、エスカレートしてって、オレンジレンジのようなプリミチブなパクリ観や、くるり岸田のこんな発言(id:assa:20041108、ラブサイケデリコからの孫引きらしいけど。)のよなパクリ観へと繋がってたんだ、という気がする。

ジミー・ペイジのギターリフをそのまんまコピーしても仕方がない。でも、その素晴らしいリフは色褪せることのない宝物のようなものやから、その後の音楽の糧にしていくことは、音楽にとってすごくいいことである。」

岸田繁にっき11月4日付より。

こうやって総括すると、コレもずーっと昔から別冊宝島辺りで議論されてたことのような気がするけど「アイ」とか「リスペクト」の有無のみがパクリを許せるか許せないか、ていう基準にそのままなってる状況に何も変化はない気がする。それどころか、某ch辺りの流れか、或いは著作権法がクローズアップされたせいか、知的財産立国なんて訳のよくわからない価値観が注目されてるせいか、世間様のパクリ観の中で、それがどんどんどんどんエスカレートしてきてる気がする。けどアイのあるなしに関わらず、結局やってることは変わらないじゃん。センスのあるなしは関わってくるけど、センス良いパクリならアイなくても大丈夫な訳?て話になるわな。それって「アイがあれば大丈夫」的な価値観的に、どうなんですか?実際問題として、原曲の好き嫌いに構わずオト素材として有効に使ってる、優れたサンプリングの例はたくさんあるんだと思うのだけどもさ……(よく知らないけども)。

……とまぁ、全然まとまってないけど、誰かが論文書こうがなんだろうが、結局世間は何も変わりはしないのねーとか思って、哀しくなってしまう。アレ書いて2年だぜ2年。増田聡さんがユリイカで、拙論文を取り上げて「必要なのは、シニックな経済とロマンチックな生活とを繋ぐこと、その間の言説空間にある欲望と折衝を描き出すことではあるまいか。」て書いて1年。そろそろ次の議論に移っても良い頃なのに、まだまだ<パクリ>という概念は足踏みしたまま、勝手に一部の間で糾弾のみが盛り上がってる現状。やっぱり誰かが次の何かを提示してきても良い時期だろうーと思う。それが誰なのか?分からないけどね。やっぱり、拙論文1本だけ書いてWEBに放り投げて反響を鷹揚とした態度で観察してるだけじゃダメな気がしてきた。総括はした。後は、先へ進めるための議論と、新たなアイディアの提示が必要だ。誰かがそれをやってくれて面白くなると信じてた。けど、現状止まったまんまだ。誰もやらないなら……まぁ時間あれば……あるといいなぁ……(こら)……。

や、こんな状況のまんまだと、「J-POP」という呪縛から逃れないまま、誰かによって音楽殺されるて。今は様々な新譜に浮かれつつも、一部の人間が口から必死に酸素送り込んでどうにか日本のポップミュージックとやらを生かしてるて状況に見える。なんか怖いんだよなぁ。やっぱ、シニシズムアイロニズムを感じさせるオンガクより、ロマンチックが止まらないオンガクとそれへの論考が溢れるセカイがいいなぁ。と願うだけで結局何もしないしできない。嗚呼、ダメな僕。


*1:余談ですが、スパイラル好きになった初期には、ななしのさんのサイトで勉強させて頂きました。ななしのさんなくして、今の遅れて来たSpiral Lifeファン、id:assaはございません。この場を借りて、素晴らしいサイトをありがとうございます、と御礼申し上げます。

*2:こんな問いを、僕がパクリの研究の発表したら、真剣な顔で問うおクラシックの教授がいたんだな卒業した課程には。論点はそこじゃないての。別段、美学分析をやりたいわけではないんだっての。ということは遠まわしに何度もご説明差し上げた記憶あるんだけどもな。

*3:スパイラルライフがパクリを実践する際に理由づけのためにくっつけた理屈。要は「カコ自分たちが聴いてきた名曲をリスペクトして今のオトとして提示してくことこそ重要」という考え方。恐らく語の発祥は石田小吉だろう。たぶん。