「どんな夢も叶えてみせる。」。

そんなこんなで、『スーベニア』-スピッツ

パワープレイ中。「もうこれ以上待てない」なんて、MOTORWORKS新曲待ち中毒を断ち切るには、丁度良いタイミングのリリースでした。やぁ、これは好作ですよ。傑作ですよ。アルバム通して、スピッツにしては長めの55分。しかもスピッツにしては少なめのシングル曲1曲。なのに圧倒的なトータル感で一気に聴かせてくれちゃう。凄ぇやこれ。

基本的にはマサムネの書く詩と曲は何も変わっちゃいない。何時ものマサムネ節が何時もの通りでてる。というか、あえて強調して自分の持つメタファーをありたけ盛り込んでる印象があってそれだけで嬉しくさせてしまう。幾つか歌詞カードから浚ってみる。「サルのままで」(「ウィリー」?)「夢」(スピッツ永遠のメタファー。夢じゃない。1人じゃない。今作ではついに「正夢」にしてしまった。)「甘えたい//新しい生き物になりたい」(「ハネモノ」?)「ドブネズミ」(ブルーハーツになりたかった……)「怪しいくらいに純情」(マサムネの持つエロチシズムそのものだ)「じゃれる」「不様」「心は羽を持ってる」(「ハネモノ」「空も飛べるはず」)「海を渡る」「黄昏」「掟」「道化」「赤い火になる」(「スカーレット」?)「虫」「おかしな生き物」「変化球」(「星観る人」?)「恋の始まり」(「僕のマリー」?)「弱気なネコ」……。キリがないけど、曲の良いタイミングですっげ以前聴いたことあるフレーズがここぞとばかりに噴出してて、それだけでグッときてしまう。ここまで来たらファンサービスの域というかなんというか。けど恐らく、これを計算半分天然半分でやってるところが、マサムネなのだ。コレがこのアルバムの中核であることは間違いない。つか、マサムネが中核でなかった盤なんて、スピッツには1枚たりともない訳だけども。

けど、同じくスピッツ節全快な盤、例えば前作『三日月ロック』や不朽の名盤『ハチミツ』に比べて、決定的に変わったことがある。それがサウンドの質感だ。ヘッドフォンで聴いてびっくりした。「正夢」でも思ったことだけど、音の質感への拘りがかつてない感じだ。

もう少し言おう。言い直そう。スピッツがずっと課題にしていた音の質感自体は、亀田誠治をプロデューサに迎えたことで、前作『三日月』で完成の域に達したからだ*1。そうでなくて、今作はその「質感ある音」を重ねて重ねて組み合わせひとつの音楽を造りだすことにかなり重きが置かれてる。試しにオケだけ聴いてみたらどうだろう。たぶん、途中抜き出したら、スピッツの音だって気付くひと少ないと思う。所謂、「ギターポップよりのJ-POP」のちょっと音響面で拘りあるバンドの音に聴こえる、と答えるひとが多そうな気がする。

ギターポップ、と書いた。オーケイ、ギターの音を例にとろう。スピッツの伝統芸のひとつのアルペジオは確かに今作でも効果的に変わらず響いてる。けど、今作はその上に更に音が乗り更にその上にも乗ってる。幾重にもギターが重なってる。スピッツて割と、CならC、GならG、と極めてシンプルなコードを三輪テツヤの情感たっぷりのアルペジオで愛撫でるように演奏するバンド、若しくは、その反動であるギターリフをガンガン押して演奏するというバンドだったのだけど、今作はそれとは決定的に違う。たぶん多くの曲で、ギターで幾つかのテンションを組み合わせて和音を造ってる。僕が「ピロウズぽいギターの和音の造り方だな。」てふと思って、亀田誠治スピッツの関係て、吉田仁とピロウズの関係に似てきたのかな、とか書いた理由はその辺りに起因する。試しに音圧を強くしてもちっと前面に音を出したら、そっくりだと思う。実に巧くギターの音を重ねてるのだ。だからシンプルなマサムネのコード進行が、シンプルでなく聴こえてくる。和音が重厚に聴こえる。

アレンジ面での工夫はその他、数え切れないほどある。もひとつ、「J-POP」というキーワードがここに絡んでくるなーて思ったのは僕だけだろうか。今まではスピッツて、「J-POP」界をある面で牽引しながら、「J-POP」と呼ばれるカテゴリとは別の所で歌ってる、象徴天皇的な位置(?)に居たと思うのだけど、今作の音はそゆ伝統芸な部分とは切り離されて「J-POP」の音として聴けるのだ。『三日月』との決定的な違いはそこにある。『三日月』はスピッツスピッツらしい楽曲をよりスピッツらしく、シンプルで透明感ある奥深い音構成やシンプルなループ等で「J-POP」の動向とか関係なく素直に表出したけど、今作は、より凝りに凝った多様な、緻密だが広がりのあるバンドサウンドと、そのバンドサウンドを引き立てるための諸楽器(弦、打ち込み他)でそれを表出してる。シンプルに「スピッツらしく」出来る曲なのに、シンプルな音にしてない。そして、その音のクオリティが非常に高く、マサムネの官能性とまた偉く官能的に絡み合う。

マサムネは他の「J-POP」の住人の動向を意外と熱心に研究してる、という話を何処かで読んだのだけども(ROJかCASTだった気はする。)、恐らくその辺りの音、つまり、今流行りの音の感じが強く意識されてる気がする。スピッツが伝統芸としてのスピッツであることに留まらないために、今の音楽シーンに通用する音を作ろうとした、なんだかそんな印象を聴いてて受ける。ギターアレンジも含め、沖縄調のアレンジ、レゲエ、4つ打ち、或いはナイアガラ・サウンドを連想させる壮大な弦の曲、ボツにしたけどラップに挑戦したともROJ立ち読みしたら出てた。オレンジレンジの初期衝動的な部分に衝撃を受けたと「音楽と人」で語ってた。その辺りの「J-POP」的音楽屋と、音響的な意味で、対等な場所で勝負できる位置に自分たちが(マサムネというソングライターを奉るひとつの音楽集団が)居ることを証明したかったのかもしれない、なんてことも思った。

だけども、それら「J-POP」の土俵にスピッツの素の楽曲を持ってきて比較してみるといい。比較になんない。圧巻だ。隙がない音なのに妄想力を掻きたてられる音。当たり前だ。元の曲が「草野マサムネ」のエッセンスを凝縮した曲である以上、そう簡単に他の追随を許す訳がないのだ。レゲエや沖縄の曲ぽくても、結局サビではスピッツ節全快だったりして、100%染まりきってないのもまた良い。他の音楽を咀嚼しつつ、その元ネタをも飲み込んでスピッツの音楽になってしまってる。アレンジや音響面を強く意識した盤だからこそ、マサムネというソングライターの地力を、改めて思い知ってしまう。

そんなこんなな結果として、今までのスピッツの盤の何処かには必ずと言って良い程潜んでた一種の「緩さ」がなく、一気に聴き通せる、繰り返し聴いても楽曲的にもアレンジ的にも飽きない名作が出来上がったと思う。スピッツの他のバンドがやってるような音なのに、スピッツそのものの粋の部分が全快なのだ。有り得ない。ホントに11枚目のアルバムか?つかほんとに君たちは、30代のおっさんバンドなのか?マサムネの童顔のせいという根強い説もあるけど、それだけじゃないよなこのバンドに潜むモノの正体は?泣きたい衝動に聴いてて何度も駆られるのは何故なんだろう?一体、その無限の「せつなさ」の源泉は何処にあるんだ?

……そんなで、この「?」の数の多さこそがスピッツというバンドの素晴らしさだと、気付かされるこの頃なのでした。すげーなぁ。スピッツの盤聴いてライブ行きたいて切実に思ったの、『隼』以来*2だよ。生でどう演奏るのか……聴きたいなぁけどチケットなんてどう逆立ちしても手に入らないんだろなー……。*3


*1:その辺りとのスピッツの格闘ぶりは、『色色衣』の初回購入特典座談会に詳しい。

*2:好きな音楽屋のバンドサウンドを重視した音のアルバムを聴くと、そのひとらのライブに自動的に行きたくなる頭の持ち主なのだ。『隼』は洋楽を咀嚼した、石田小吉スピッツを巻き込んで作り上げた初期衝動の盤だから、今作とは全く別のベクトルのバンドサウンドなんだけどもさ。けどアレも根本、スピッツ節だったりするからな。「スピッツらしくない。」なんて『隼』の評を見ると、何処をどう聴いてそういう判断になるんだろう?と思うことしばし。かなり余談。

*3:……誰か次のツアーの関東圏のチケット複数とれそうな、ふとこの文章に何かを感じた奇特なスピッツファンクラブ会員の閲覧者の方いらっしゃいましたら、何かの都合でチケット余って、余ったよどうしよう、て思ったとき、ふとこんな文章を書いてる変なヤツがいた、と思い出したらで良いので、ご連絡下さい。……つかこんな恥も外聞もない文章晒してる時点で最早あかんな。