速く遠く、あの光を盗み出せたら、届けて欲しい。

『Walkin' on the spiral』-the pillowsピロウズの15年間のキセキを綴った、ドキュメンタリフィルムてやつ。観ると猛烈に『Please Mr.Lostman』を聴きたくなる、そんなDVD。つか、久々にiTunesでなく、CDをプレイヤにぶち込んでロストマン聴いてる。入れ替える前はいってたCDは『Wine,Chicken,and Music』だった……解り易い……。しかしまぁ音はMP3に圧縮する前と後では全然ダイナミックレンジと高音の伸びが違うのね。CD買おうぜーCD。つ訳で今日はアジカン買って来た。ピロウズのシングル『その未来は今』も。

話が逸れまくりだ。Life is Spiralの話だった。じゃなくてピロウズの話だ。ロストマンの話だ。にしても、BUMPのロストマンは実に名曲だと思う。やぁ、状況はどうだい?舵はしっかりとれてるかい?海路で迷子になってないかい?

……じゃなくて……いや、この盤は実に面白い。クールさと昂揚感、躁と欝。感情の起伏みたいなモノが楽曲の折り重なり方によって見事に顕されてる。よってこのアルバムの泣き場は幾つもあるのだけども、やはりクライマックスはこの一節だろう。「優しい歌を歌いたい/拍手は1人分でいいのさ//ああ君と出逢えてよかったな」その曲の名、「ストレンジカメレオン」。生年、1996年。

因みに、これに立て続いてリリースされた名盤『LITTLE BUSTERS』と『Please Mr.Lostman』、無人島に持っていくとしたらどちらを選ぶか?僕はロストマンを選ぶだろう。但し、他人に薦めるときはバスターズを薦めるだろう。殆ど沈んでるみたいな無人島で、しっぽを切りながら消せないせつなさに打ちひしがれる必要なんて大抵の人間には、ない。僅かなキボウを歌う斑虹を聴いた方が良いに決まってる。それでも優しい歌に思いを馳せる奇特な人間なんざ、僕ひとりで十分だ。

さて、無人島で聴きたい曲、涙しながら口ずさみたい曲。ストレンジカメレオン。どれくらい名曲かといえば、かのミスチルがカヴァーせずにはいられなかったくらいに名曲なんである。そもそも、桜井和寿歌詩集の題名からし『優しい歌』だ。これは2001年当時リリースされたミスチルのシングルの題名からとられている訳だけども、その題名からして、実はストレンジカメレオンを意識してたんじゃないか、てのが僕の想像。だって、先月リリースされたピロウズの15周年トリビュート盤『シンクロナイズドロッカーズ』におけるミスチルの「ストレンジカメレオン」のカヴァーの熱の入り方は、聴けば理解るが、半端じゃない。勿論彼らは完全無欠の音楽的演出能力を有したバンドだから、それはただのカッコつけかもしれない。けどやっぱり音は上ずり、ことばのリズムをたたきつける桜井のヴォーカルを聴くと、これがただの演技的なモーションには聞こえないのは事実。This is not the motion, but the Emotion...

アレンジからして、桜井にそう歌わせるお膳立てに満ちたアレンジだったりする。先ず緩やかな三連の続く淡々としたミドルテンポのシャッフルな原曲をアップテンポな8ビートに変換してる。これが意味するものは「フレーズの凝縮」である。テンポが速くなり、三連シャッフルでやってたモノを半ばムリムリに速い4拍子8ビートに変換してるから、必然的にことばが詰まる。同じ時間でより多くのフレーズを歌わせる。するとヴォーカルはそのリズムに乗っかって、声をたたきつけることを可能にする訳だ。

先ず、重要なのがこの曲において大事な鍵となるフレーズ、イントロの「I wanna be a gentleman」、これを原曲のままの譜割で速い8ビートの4拍子に載せるのが難しいにも関わらず、実にさらりと自然に歌いこなしてる点。イントロで自然にこのフレーズが耳に入ってくるから、後に続くこの変則リズムが自然に聞こえてくる。このリズム感を生み出してる伏線となっているのがイントロのピアノフレーズや、ドラムの回し方、リズム隊の使い方だったりする。この辺の編曲のこなれ方は、やっぱ小林武史巧いよなーとか思う。しかしこんな熟練の職人技アレンジも、全ては、桜井に「歌わせる」ための装置に過ぎない。と、曲を聴いてると気付かされることになる。奇を衒い、独自性を出すために拍子を変えたんじゃない。全ては、桜井に歌わせるために、このアレンジは存在する。そんな気がしてくる。

それを象徴するのが、リズムがシンプルな8ビートに切り替わるサビのフレーズの歌い方。そのヴォーカルのリズム感の崩し方+載せ方が余りに素晴らしい。あざとく聞こえるくらいに素晴らしい。ポップスとは元来、あざとくあるべきものなのだ。という極論が正しいかはさて置き、素晴らしいと思えることに変わりはない。

例えば「君といるのが好きで/後は<ほとんど>嫌いで/周りの色に馴染まない/出来損<ないの>カメレオン/優しい歌を歌いたい/拍手は1人分でいい<のさ/ああ>それは君のことだよ」「例え世界はでたらめで/種も仕掛けもあって/生まれたままの色じゃ/もうだめ<だって>気付いても」「もしも全てが嘘で/ただつじつまあわせで/<いつか><懐いて>いた猫は/お腹<空かせて>いただけで/すぐに<パチンと>音がして/弾けて<しまう>幻<でも/ああ>手の平がまだ暖かい」の<>で囲った部分。この部分のフレーズでヴォーカルのリズムの崩し、ゆらぎ、たたきつけによって与えられるアクセントは相当のものがある。そこが強調されることで、逆に残りの8ビートに自然に載せたフレーズが綺麗にすっと、耳に入ってくる。実に緩急の妙というか、そういうものが構造的に巧くできてる。このヴォーカルは、崩すことで、バランスを獲得している。そんな気がする。

そのような歌唱の結果、強調されるものは何か。ことばに直すと陳腐だけど、それはことばの持つちから、とでも言うべきものだと思う。音がことばを強調し、イメージを増幅するのだ。そして、桜井の歌いたかったものの正体を、僕ら聴き手は妄想することになる。そして自然とことばはここへと繋がる。「優しい歌」。そう、全てはここに凝縮されている。

「優しい歌を歌いたい/拍手は1人分でいい//ああ君と出逢えてよかったな」。

常に大勢の観衆の拍手の前で、サービス精神たっぷりなポップスを振りまく、そんな桜井の本音がこっそり、この部分でささやかれてるような気がするのは何故だろう。カヴァー行為を「唄い手冥利」という見事なことばで椎名林檎は評したけども、唄い手にとって、カヴァーという行為の持つ意味は僕らが考えるより案外重く、深いのかもしれない。例えばこんな箇所。

「バイバイ/僕はストレンジカメレオン」

原曲とは違い、シャウトでミスチルによるカヴァーは幕を下ろす。壮絶な叫び。それは「一人分の拍手のために、優しい歌を歌いたい、だが歌えない。」という反語を含んでいるような印象も受ける。そうか桜井、君はしっぽを切りながら、色を変えながら、必死に歌っているのか。けど結局その必死さは、優しさを打ち消してしまって、何処にもいけなくなっているのか。優しさに包まれたなら、どんなことばだってメッセージになるのに、それを失った今、声は空回り、本当に伝えたいことばは伝わらなくなっているのか。No No No Non……

そんな悲哀が見え隠れする、圧倒的なポピュラリティを持つカヴァー曲というのも、実に珍しい気がする。あえてそうしたとすれば、上記のような解釈も成り立つ気もしなくもない。ポピュラーミュージックの持つ悲哀。唄い手の持つ悲哀。そうか、この歌うたいはきっと他人のことばで以ってこう呟きたかったんだろうな、となんだか思ってしまったのでした。――優しい歌を、歌いたかった――あぁどうやら僕は、紳士にはなれなかったみたいだ――けど、だけど君に出逢えてよかった――。