めぐり合える?Smile?

アイモカワラズ、『Speeder』-MOTORWORKS

どうにも日本語ヴァージョンより英語ヴァージョンのが良い感じな理由について本気だして考えてみた……とまではいかないけどアイシンク。アレンジは全く同じなんだけども。その差異について。因みに日本語の歌詞より英詩を気に入るなんて、自分で口ずさめる曲、てのが良い曲観の前提条件な僕にしてみりゃ非常に珍しいことなんですわ。つ訳で、あえてテキスト論に走ってみる。

車フェティなイシダによる車系なイシダの歌詞はどうにも直球に偏りすぎる。「スピード」てのがイシダロマンチシズムの源泉であることは、キャラメルボックスから出たオレンジ色のサントラの中の解説を見れば理解できることなのだけども。その辺り、914然りルカ然りLIVE+DRIVE然り、どうにも先走る傾向がイシダの車詩にはある。気がする。アクセル踏み倒して前のめる、ての?「そう走ることとは飛ぶことなのだ/これを恋といわずなんと言おう?/何処までも何処までも走って行きたいこの衝動/そう僕は君と飛び続けたいんだ」て感じ?なんでソラでこのフレーズ書けるんだ自分。結局好きなんじゃん。

けどこの熱さとか衝動て、クールな演奏を身上としてる(のかは知らないけど少なくともイシダに比べれば歴然とそう見える)黒沢健一が歌うとちょっとばかし違和感がある。確かにフレーズ的には嫌いになれるはずもないイシダ節のカタマリなのだけども、イシダの個性が前に出すぎてる分だけ、それを黒沢健一が歌いきれるか、てのはビミョウという気がする。つか、やっぱ「ポップでクールでキュートでナチュラルなポップス職人」黒沢健一がフロントに立つイメージとは弱冠ズレるのよ。

そこへ来ると英語詞てのはまず、そいう先走り観が前にでてこないのが良い。そのクセ、下の駄訳を見れば理解るけど、日本語に直してみると無茶苦茶ロマンチックなのだ。そこには絶望が根底としてあり、その絶望を圧倒的なスピードで以ってねじ倒したいという強い欲求がある。しかしその欲求に垣間見えるのは周囲をおきざる速度感ではなく、「あらゆる真実のその美しさにロコモチブを贈りたい、そんな願いを。(一部意訳の意訳)」という、周囲を受け入れることを前提としたスピード感である。(「周囲のスピードに置き去りにされてる焦燥」を歌うスネオヘアーとは対照だよなー、と書きながら思ったけど、それはまた別の話。)

そのロマンチシズムをポップス界を彷徨い走ってきた黒沢健一が歌いきったとき、あーそうかこのバンドはこゆオトでこゆコトバを奏でるのだな、という安心感が生まれる。置き去りにされない。オトに受け入れられる感覚。そしてその安心感に身をゆだねられるだけの轟音が背後には突き抜けてる。後はシコウなんて片隅おいておいて、そのオトにダイブすれば良い。30代中盤に差し掛かるオトコ達がこんなオトとコトバを奏でられるという事実だけで幸福なんです、て思えるこのメロハモカシリズムタイギター。やばいです。


あと、三連譜に載せたときの日本語がどうにもぶつきりになりやすいが、英詩だとそれがすんなりリズムに乗りやすい、とか、イシダコーラスと黒沢健一のヴォーカルバトル具合がイシダポップス特有の熱さを助長して感動的ですらある、とか、色々書こうとしたけどそれはまぁいいや。詩と詞の表記ゆれはお許し下さい。変換がばらばらなのよ。普段使ってるときにもばらばらだ、てことなんだけどもつまりは。基本的には使い分けてるのだけどね。シ。