カオナシ。

『百景』-THE BOOM

FIVE-D社長による「反CCCD宣言+音楽理想主義思想」を見かけて、あーこれは買わなきゃいかんな、と思ったてのもあり購入。いや、BOOMは、オリジナルアルバムについては全部持ってたりするんですが。BOOMとL-Rという、なんか対極にありそうなバンドを好んで聴いてた高校1年のあの頃。あまり良い季節ではなかった。

……てのはさておき。いやーBOOMて丸くなったなぁ、てのが一聴しての無責任な感想。いや、決して悪い意味じゃない。純粋に、よいうたをうたいたい、という意識がびんびん伝わってくる。ただ、問題は、そんな彼らの姿勢に聴き手として僕が巧いこと同調できないことかもしれない。けどさ、今思えばルーツレスな自分達に悩んだ時期の彼らの音源(『ジャパネスカ』『FACELESS MAN』『極東サンバ』『トロピカリズム』……)て、何処か消えてしまいそうでだけど辛うじて踏みとどまってる感覚と、宮沢の安定感ある歌唱のギャップがたまらなくツボだったの訳で。対して、今となっては、歌を通じての自己肯定が喪失感とか焦燥感に優っていたりして、なんだかわけわからない感情の飽和してた頃から比べるとなんだか物足りない部分もなくはない。んー。いや、キレイな日本語をキレイなメロに乗せるて一貫した詩人/歌うたい宮沢和史の姿勢には頭下がる一方なのだけども。



ところでこの丸さて何処から感じるのかなぁ、と思ってみたんだけど、改めて聴くと宮沢和史て、ずいぶん母音がはっきりしない歌い方をしてるなぁ、と。よく歌を歌ってると、子音をたてて母音をはっきりして初めてことばてのは伝わるんだ、みたいのが定説なんだけども、宮沢和史てそれがまったくはっきりしてない。背景にある音に声を溶かしてる、ていうか融和してるつか、そんな印象を聴いてて受ける。この音と声の一体感がある種の安定感を生み出すのか。そしてそんな感覚を生み出しつつ、しっかりコトバが届いてくるのが不思議で堪らないのだけど……。

と、よくよく考えると、あーこのひとて基本的に同じことしか歌ってないものなぁ、てことに気づかされる。成る程、歌が伝わるのは歌い手と聴き手の間に時間かけて築かれた関係性みたいのが前提として横たわってるからなんだ、と無責任に思う。BOOMはこいう歌をこいう風に歌うのですよ。て。そいう伝統芸的な部分が「安心感の構築/スリルの欠落」につながってる、と。事実、宮沢和史歌唱は独自路線で確立しつつある気するし、それは彼が彼なりにうたでなにかを聴き手に伝える術を身につけたてことを意味するのだと思う。

全然まとまらないけど、要するに子音たってなかろうが母音あいまいだろうが、伝わるものは伝わってしまう、てことだ。ことばの基本を突き抜けてそれを実現してしまう、それってすごいことだと思う。結局それが為されてしまう根本をなんと呼んだらよいんだろう……やっぱり、アウラ?違うか。まぁいいや。