歌詞論の快楽。

『恋するJポップ』-難波江和英、読了。歌詞に焦点をあて社会学的アプローチ(?)で分析することで「恋愛/幸福症候群」な現代を問う書。てなんか日本語になってないな。んー。Words don't come easyと石田小吉が今iTunesで歌ってる……。

話逸れたですね。全般テンポ良く読めて興味深くはあったのだけど、じゃぁ思い返してみて何が残る、と問われると非常にビミョウ、とかそんな感じでした。テンポのよさが仇になったのかもしれない。

それに、歌詞をざくざくと切り取って並べて立証してく、て全般貫かれてるスタイルに違和感を覚えたのも確か。その文章が歌詞全体のどんな文脈で使われてるのかの判断が難しく恣意的に見えてしまう側面もある。そこに「職業作詞家」「自作自演屋」「やっつけ仕事」「アイドル歌謡」「本音のつもり」「二枚舌」というよな区分を厳密に設けず並べたのはたぶん作家論から抜け出す狙いに依るんだろうけど、恋愛という制度を語りつつこゆ産業側の「制度」、或いは作家性という「制度」を考慮しないよに見えるのもなんか寂しい。増田聡氏の指摘する通り、これが「先入観」によるものなのかもしれないけど。んー。

ただこの辺り逆に価値がある、と思えるのは、歌詞の解釈を厳密に並べることで生まれるイメージと、1聴き手(読み手/書き手)として歌詞から浮かべてるイメージの間のブレを確認できることからか。恐らく歌詞に拘泥するさまざまなリスナがそゆ感覚を抱きつつこの文章眺める訳で、そうなると幾通りもの歌詞解釈が生まれ、そこにまたブレが生じる。それは「作家論」とかなんとかを度外視したとこから生まれる、純粋に歌詞消費者の消費者による消費者のための、消費者同士のテキスト解釈ゲームを誘発する引き金になるんじゃないか、なんて漠然と思ってもみた。歌詞は自己表現の産物だー、作者の伝えたいメッセージ聴きやがれー、なんて考えは捨ててもっとスマートに歌詞テキスト渡りあるこうやー、とかそんなことをふと思える本だったのでした。とさ。まぁつまりはこの本を自分に都合の良いよに解釈して無理矢理こゆ文章群のこと自己肯定しようとしてる訳でありますが。あれすね、恋愛て自己肯定の手段とゆ側面もある、て感じで。ご容赦くださいな。嗚呼、言葉拙し、愛せよJポップ。


因みに『ミュージックマガジン』での書評は未読。