GET BAKU JoJo !

折角なんでまだBAKU話。またかよ。ごめんなさいね。なんかタイムリーだったから。

たまたま家にブクオフで捕獲したまま転がしたままの『LIVE AT BUDOKAN JUMP THE STREET 1992』-BAKU を発掘したんで観賞してみる。92年1月、解散発表(つか車谷の暴走)の3ヶ月前のライヴ。確か解散はこの時から決まってたとインタビュで言ってた気がする。つまりはそんな時期。車谷の「隣にいるよ」はCD音源よりずっと感動、イノセントな空気感、失望、絶望。「葡萄館で歌えて仕合せです」とか言いながらなんだその達観した表情は。そしてアンコールの「ぼくたちだけの天国」の大合唱は、スパイラル横浜アリーナ最終ライヴ映像の「People」大合唱に通ずる感動があった。うるんでしまいそうだ、あはっは。車谷には達観の表情がよく似合う。因みに石田小吉とレコーディングした音源をBAKU名義でリリースで発売したのがこの7か月後であります。

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040403

つ訳で謎ときがひとつ。Dragon Ash 経由ですか。因みにKJに食われ過ぎな「Right Riot」は車谷ファンには(たぶん、すこぶる)評判が悪い駄曲という印象であります。その繊細な声にヒップホップは似合わないさ。その辺り聴くなら「夏の色を探しに」辺りを聴いてくれー。因みに、KJとの狂演に1車谷ファンが抱いた印象のサンプルとしてはこちらを参照↓。

http://members.at.infoseek.co.jp/kurumataniisan/neta5/index.html

けどDA経由なら僕の唯一好きな彼等の名盤『Buzz Song』でかなりリスペクトしてた『MY LIFE AS AIR』辺りを聴くよな気がするのけども。そこでどうして直にBAKUに行くのか。車谷の声が嫌いだけど曲が聴きたい、てとこなのか。音が煩過ぎる、てことなのか。つか僕の疑問の中心は「なぜBAKUなのか?」てより「なぜスパイラルライフじゃないか?」なんじゃないのか?徐々に話題逸れてってるぞ。んー。

つかそもそも別冊宝島を参照してBAKUに辿り付いた、てことは、きっとそこに「Spiral Life」の文字もなかったてことな訳で。著者的に「AIR」を「元スパイラル」と書くより「元BAKU」と書いた方がウケが良い、て理由でスパイラルを書かなかったのかもしれないし、或いは書いてあったけど、彼はそこを読み飛ばし「BAKU」という活字に目を奪われたのかもしれない。どちらにしても言えることは、情報の断片化というかなんつか。それだけ知ったらそこで終わりな感覚、ていうか。自分の興味の範囲を点で捉えることへの(或いはそう仕向ける書き手側の)何処か刹那的な執着というか。

因みに僕の場合は車谷という素材の発言、行動の遍歴と音楽性の変遷との結びつきに余りの面白さを感じ、実証的物語化みたいなことを自己完結的にやってる訳で。なんて難しいこと言ってるけど、要は、BAKUには「こどもを振舞った車谷」、スパイラルには「オトナになりかけてなれなかった車谷」、AIRには「こどもな感性に還った車谷」を見出してるてことなのよ。こうやって並べつつ音を辿ってくと、こんな面白い音楽家ていないと思うのだけども。そしてそんな彼の中の物語が結実した瞬間が、石田との衝突で生まれたスパイラルの一瞬の煌きと思う。この瞬間の眩しさのためにBAKUは色んなモノ溜めてきたし、AIRはその眩しさの残滓で今迷走しながらどうにか前進もうとしてる。そんな気がしなくもない。て、鹿野淳的でごめんねさいね。

とにかく言いたいことはいつもひとつ。聴いてよ、スパイラル。