sync. & think.

せっかくなので、も少しだけバカ話もといBAKU話。http://d.hatena.ne.jp/assa/20040329 に関連して。丁度低速で大塚英志「おたくの精神史」を読んでるとこだし。80年代論との接続云々。下記参照。

 http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040329#1080487280
 http://www.socion.net/soul/index.php?itemid=311
 http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20040331#p1

基本的に「データベース消費」云々で語りやすい部分ではあるとは思うのだけども、この辺りて聴いてる当事者達がどんな意識で音楽を聴いてるかによってくるてのもある訳で(詳しくは手前味噌な拙論文を読んでください。)なんともいえない部分ではるけど、あえてなんとか言おうじゃないか。試論。

サンプルはアイモカワラズ、スパイラルライフを知らないAIRを聴かない(?)BAKU好き。車谷と石田の92〜96年の輝かしきキセキ(物語化)を知らないてことは少なくとも「歴史的」には聴いてないよな。てことはやっぱりデータベース消費ですか、てことになる。音楽を情報として扱い、手当たり次第にランダムにピックアップし消費する。うん、合ってる。

しかし、僕の持論によれば「データベース消費」は「新たな物語消費」の過渡期に過ぎない訳で(詳しくは手前味噌な拙論文を読んでください。)、2000年代に単純にデータベース消費なんぞ復活させてたまるか、て気にもなってくる。じゃぁ何か、て考えるとひとつふと思い立つ部分がある。

BAKU諧謔の音楽だったりする。そもそもこのバンドはシニカルな車谷が「デビューしやすい」という理由で当時のバンドブームに乗じて悪乗りと計算を組み合わせて造ったバンド。その根底にある「自己批評精神」こそが車谷の後の音楽人生へのキーだったりする訳で、横目で自分の姿を薄ら笑いながら消費されるために量産した音楽に塗れ「非意味」を積み重ねた結果、積もり積もった「自己表現(意味)」への欲求。それこそがギターを折っての解散発表に繋がっている。と思われる。詳しくはロケオンの20000字インタビュでも参照してみましょう。

諧謔の音楽。宮台の言い方借りれば、「シャレ」の音楽。ところが80年代ブームという「流行」に乗ってBAKUを聴くひとはきっとこんなことまで考慮していない。つか、できない。何故なら、音楽本体と「BAKU→スパイラル→AIR」という音楽性の変遷の裏に隠れた「車谷」という物語との断絶があるために。すると彼らは宮台の言い方を借りれば「奴ら」……じゃなくて「オシャレ」として音楽を消費してる。てことになる。のか?けどそれ解せないのよ。どう見ても、どう聴いてもオシャレな音楽には見えないし聴こえないさ。てことは、オシャレでもなんでもないけど私はBAKUが好きだ!というとても主体的な判断がそこにあるものと思われる。「私は聴く」。おー接続できたじゃないか。(詳しくは手前味噌な拙論文を読んでください。)

つまり何が言いたいかて言うと、結局はBAKUを聴く彼/彼女の関心事は「車谷」という主体ではなく「私」という主体だったりする。それは無意識な「自分が生まれた時代(かつ失われた時代)=80年代への回帰願望」を含むのかもしれない。イッツ・ソー・ノスタルジック。それは「歌い手」の立場ではなく「聴き手」の立場による「音」の再構成、そして音を再構成することに立ち顕れる似非自分史へのアクセス、即ち「物語消費的側面」を含んでるのではないか。90年代をスキップするのは先述した通り、自分の音楽聴取史の闇の部分は葬りたいというコンプレックスがあるため、て解釈も成り立つ。


て、思い付きなんで纏まってないこと書いてるけど、一種のブレーンストーミンとみなして適当にあしらってやってください。よく理解らない方は、手前味噌な拙ろn……