ゆめのつづきにちいさなつばさを。

『別冊宝島961 音楽誌が書かないJポップ批評34 バンドブームクロニクル-1988-1990』を購入、拾い読み。やっぱ時代が近づくと理解しやすいわぁ。てやっぱりこれでも僕にとっては「昔」の部類なんですけどね。8〜10歳。

因みにココに取り上げられてるバンドの中でなじみでかなり聴いたのは、LINDBERGTHE BOOMくらいか。BAKUSpiral Lifeを聴いてから遡って聴いた(車谷声がより一層儚げで所在無く、ビブラートが利いてて結構オツだったりする。たまにギターがはっちゃけて歪んだ曲があるのも悪くない。谷口宗一の声はあまり得意じゃない、けどリレーヴォーカル形式をとった最終シングル「ぼくたちだけの天国」は名曲と思う。)。ジュンスカブランキーは聴いてない。たまやXは流石に小学生の頃でも前者は耳に、後者は目には届いていた。人生て名前を知ったのは電気を知った云年後。つまりはそんな感じ。そうか90年てそいう時代だったんだよな。完璧なフォロワー状態。こんなヤツがしたり顔で90年初頭にかけフリッパーズが渋谷系の祖となり云々書いて卒業してるんだから笑っちゃうね。まぁそんなのはいいや。

とりあえずどうしても一番聴いてたLINDBERGの記事に目がいくのだけどさ。意外と好意的に書かれていたのには驚いた。プリプリに比べても断然扱いが大きい。けど「アイドル評論家兼音楽ライター」が記事を書いてて、解散が「92年」、アルバム枚数「15枚」とデータが不正確なのが気になるが、書いてあることはそれなりに頷けるのでまぁ良いや。巷で話題の調査不足批評ではなく、ただの誤植だろう。たぶん。

与太話が続くけど、このLINDBERGの何が魅力か、て「元気いっぱい」な部分でなくて「空元気いっぱい」の「空」の部分だと思うのは僕だけ?つか僕は今から考えると間違いなくそこに惹かれてたんだと思う。中期から後期のLINDBERGをリアルタイムで聴いてた訳だけど、その頃から売上げも落ち始め、また元気印を演じ続けることに対する「疲れ」とか「焦燥感」が端々に感じられるようになった。そんな状況でも遊び心を忘れず音楽を最終的には楽しもうとしてた、という姿勢自体に、必死にもがきたくてももがく方法を知らなかった僕は魅力に思ったんだと思う。「くじけたこと100万回あります」と進研ゼミのCMで言ってたの懐かしいなぁ。(余談だけど、生まれて以来1日120回はくじけてた計算らしい)。

小さなおんなのこが武道館の舞台に立つという物語に惹かれたのも確かだったりする。「LINDBERGという名の由来になった夢の中で自分が立っていた舞台が実は武道館のステージだった」という造られたようなエピソードも何故か彼女が言うと本当に聞こえたりもする(つか本当だろうと僕はなんとなく確信している)。それを信じさせる何かが渡瀬マキには備わってたと思うし、そこに無意識的に多くのファンは惹きつけられていたんだろうと思う。ただ僕の場合、そこにサクセスストーリを見出した、というよりかは、逆にそのサクセスストーリを背景とした彼女らの抱える切実さを見出したような気はする。武道館を夢見るには、彼女の身体はあまりに小さく、挙動や言動(や歌詞)はあまりに健気だった。徐々に初期の空元気から元気が失せるに連れ、そのギャップが抱える切実さはますます増すことになる。最終的にはメジャーレーベルから見放され、作品の質も落ち、渡瀬が育児に専念したいと宣言。バンドは解散することになる。

まぁたぶん、平川と結婚した時点で、ある意味おんなのこ渡瀬の夢物語の第1幕は終わってたて気はするのだけど。と書いてふと思い出した。結婚後に出したアルバムで1枚僕が大好きな盤があった。『LINDBERG XI』。これは夢物語から外れつつあることに対する「焦燥感」みたいなものをある程度彼女らの意識から切りとることで、素直に音を出すことに成功した名盤だと思う。「意識としては『LINDBERG I』」と彼女らは当時のインタビュで言っていた。ジャケットの写真は洗濯機。過去なんざ一旦洗い流してしまえ、演りたいことやろうや、という潔さがこの盤にはあった。そして、それがある盤はこれが最期になった。つか唯一かな。

そんなで夢の続きは確かに存在する。渡瀬は今育児に精を出し、育児の喜びを某所で綴っているし、旦那も旦那でプロデュース業に励んでいるらしい。事務所での登録名義は「平川家」。彼女が夢見た第二のステージは確かにそこにある。なんて書くと駄文のクセにカッコつけて締め過ぎか?いや、単純に僕を育てた音のひとつですからね。そらもう、無視はできないですよ。つか、僕にとって渡瀬マキは、最初で最後のアイドルだったかもしれないよな。今思うと。