2:恋する美術だ。

ところで、ここで強調したいのは「言語は思考を前提するのではなく、これを実現する」というポンティの言語に対する捉え方である。その考えは、言語というものが単に内面を変換し指し示す「記号」ではなく、一種の身体性(身振り)を持ったより主体的な存在である、ということを意味する。ポンティはこの、言わば「言語の身体性」を可能とする、人間の底にある、コミュニケーションの基盤となるような存在を<肉>と呼ぶ。言うならば、人間の言語コミュニケーションとは、言語という「記号」を交換する作業ではなく、言語の中にある「意味」を、更には意味の底に存在する<肉>と呼ばれるものの存在を共有する作業なのである。「見る者と見られる物体との間にある<肉>の厚みが、見る者の身体性を構成すると同時に、見られる事物の可視性を構成する。この厚みは見る者と見られる事物の間の障害物ではなく、その交通の手段である。」*1

「言葉」「日本語」を扱い創作活動を行っているイチハラヒロコという現代アーティストがいるが、彼女の作品はそのような言語の特徴を活かし、また、特徴を理解しやすく示してくれるという点で注目に値する。例えば横浜トリエンナーレに出展された「恋する美術だ。」という作品がある。*2われわれは先ず、その太いゴシック体によって描かれた活字の視覚的な明確さに注目する。そして次に注目するのはその言葉の持つ「意味」である。しかし、このフレーズの持つ意味の受け取り方は、そのメッセージの簡潔さとは裏腹に様々である。先ず、このフレーズには主語が無い。誰が美術に恋をしているのか?或いは美術が誰かに恋をしているのか?美術を介して誰かが恋をしているのか?或いは、巨大なバッタ風船が、ホテルの壁面に恋をしていると言うのか?その解釈は何処にも記されることはない。

イチハラは「わたしに英語を教えてください。」という展覧会をWebを利用し行っている。*3日本語でしか公開されていなかった彼女の作品の英訳を公募し、作品と共に展示していくという試みである。しかし、確信犯的なのかどうか、ここでもイチハラの作品の持つ特徴が明らかになる。例えば「恋する美術だ。」には「Art in Love.」「It is the fine arts which falls in love. 」「Loving Art! 」「Two of us in Art. 」「Art makes me hot. 」「I fell in love with ART. 」「LOVE with ART. 」「This is "Love" in an art form.」「The Art in Love 」「sensual technique of love 」という計11個(02年7月24日現在)の英訳が存在する 。*4

ここで明らかになるのは、イチハラの作品のフレーズが持つ、その多義性、曖昧さだけではない。ここで重要なのは、彼女の言葉は、例えば英語という「記号」によって、1つの意味として固定できない、という事実である。この事実は、言葉というものが、ある1つの「意味」を変換し、置きかえられた記号であるという考えの不確かさを証明する。もし言葉がそのような「記号」であれば、彼女の発した「言葉」の意味はまた別の「英語」という記号に的確に「変換」が可能なはずである。しかし、彼女はそれが「不可能」であることを巧みに利用し、そこから生まれる様々な「意味」で遊んでいるのだ。

ここに「言葉」の持つ本質的な部分(身体性、肉の部分)が明らかになる。つまり、この多義性を利用した「遊び」を、多くの鑑賞者と、「言葉」を発した作者自身が「共有」すること自体がこの作品の存在する意義なのである。従って、この作品から鑑賞者が垣間見るのは、その記号としての言葉の恣意的な意味自体ではない。語り手であるイチハラの「身振り」であり、その底にある、彼女の「言語を通じてコミュニケーションを鑑賞者と図ろう」という意志、更にはその前提となる<肉>の部分である。

鑑賞者はイチハラの作品において、その意味を考えようとするかもしれない。しかし、それはあくまで副次的な現象であって、彼女の作品鑑賞の本質は、言葉の辞書的な意味の向こうに透ける、その身体的な「意味」である。もっとも、彼女はその「意味」を介して正面から堂々とした態度で鑑賞者とコミュニケーションをとろうとはせず、幾つかの茶化しを交え、冗談めかした態度をとろうとする。例えばその姿勢は左の写真の作品『万引きするで。』*5に顕著に顕れている。イチハラはイギリスやオランダで「万引きするで。」と印刷された紙袋を配布するパフォーマンスを行う。彼女はそうすることでその紙袋を持った外国人達が万引きすることを予告しているのでは当然ない。つまり、字義通りの警告をこの作品を通じて伝えようとしている訳ではない。彼女が作品を通して鑑賞者に伝えているのは、そのような言葉を利用した「遊び心」であり「茶化し」の精神である。そして鑑賞者は、紙袋が持った人が万引きする訳ではなく、彼女のしかけた言葉を利用した遊びに巻き込まれているに過ぎない、ということを知っている。その事実を前提として、この「遊び」は成立するのだ。

また、彼女は一連の発表作品で、一見無機質な、人間味の無いゴシック体というフォーマットを用いる。しかしその「無機質さ」は逆に彼女の意図を浮き彫りにするための巧妙な演出となる。また、自らの作品の意義を自らの口で語るのではなく「わたしに英語を教えてください」という質問を介して自らの意図を鑑賞者に伝えようとする。彼女が、英語を習おうとは思ってはいないのは、その態度から明らかである。この質問ひとつとっても、彼女の、言葉の持つある特性を活かそうとする意図が垣間見える。

鑑賞者に自分の内面(heart)を言葉という記号に変換して伝えようとはしていない。そして彼女は鑑賞者に様々な解釈をばらまく。彼女は「私の言葉を真実だって信じてほしい」などとは口にしない。そして、言葉を介して鑑賞者が見たままの風景を尊重し、それを自らの作品に再び生かそうとする。誤解こそコミュニケーション、という一般論に再び戻るなら、彼女の作品は誤解を前提としたコミュニケーションのための手段なのである。そして、そのようなコミュニケーションが、言葉の持つ「身体性」を前提としていることを鑑賞者はほぼ無意識のうちに感じ取るように、彼女の作品は仕組まれているのである。そういった意味でイチハラは、まさしく言語を通じて彼女の抱える「思考」を「実現している」のだと言えよう。


(参考文献)

メルロ=ポンティメルロ=ポンティ・コレクション』ちくま学芸文庫 1999年
小阪修平 他 『現代思想入門』JICC出版局 1984

*1:メルロ=ポンティメルロ=ポンティ・コレクション』P.124 『絡み合い―キアスム』(1983年)

*2:http://table-b.net/ 『恋する美術だ。』項目参照。

*3:http://table-b.net/

*4:http://table-b.net/3h_ichihara4.htm

*5:http://www.nadiff.com/archives/2001/ichihara.html