1:Words don't come easy to me.

Words don't come easy to me
How can I find a way to make you see
I love you
Words don't come easy

Words don't come easy to me
This is the only way for me to say
I love you
Words don't come easy

Well I'm just a music man
Melodies so far my best friend
But my words are coming out wrong
And I, I reveal my heart to you
And hope that you believe it's true
*1

F.R.Davidというフランスの歌手の曲『Words』(1982年)の歌詞の1節である。言葉を介したコミュニケーションにおけるジレンマが描写された、なかなか興味深い歌詞であるように思える。「言葉はいつも空回りする、だけど僕は気持を君に伝える、どうか真実だって信じて欲しい。」

このような歌詞の引用を持ち出すまでもなく、言葉を介したコミュニケーションとは複雑なものである。言葉には、常に「誤解」という要素が付きまとう。自分が発した言葉が自分の気持を的確に描写したものであるとも限らないし、相手から受け取った言葉の解釈が、相手の意図と一致するとは限らない。そもそも相手が発した言葉は嘘かもしれない、という可能性も常にある。コミュニケーションは誤解の総体である、とは使い古された一般論かもしれないが、そのようなことを考えれば考えるほど「言葉は簡単には浮かんでは来ない」し「空回りする」し、だけど、やっとのことで出てきた言葉が「真実である」と相手に「信じて欲しい」と願わずにはいられないのだ。

しかし、よくよく考えてみると「果たして自分の気持を正確に顕す言葉」というのは、ありうるのだろうか、という疑問が生まれる。「言語は思考を前提するのではなく、これを実現する」*2 とはメルロ=ポンティの言葉である。この解釈に即すならば、そもそも僕らはAという内面(heart)を前提とし、Bという記号(words)に変換する、という作業をいちいち行ってはいない、むしろ、B(words)そのものがA(heart)そのものを構成し形づくる、ということになる。「内面的な生と思われるものは、内的な言語なのである」*3引用した歌詞を例にとるなら、「hearts」という曖昧な「内面」は「I love you」という3つの単語からなる意味「そのもの」である、といえるかもしれない。

また、ポンティの考えによれば、「空回り」して顕れる言葉こそ、言葉を発する人の「思考」である、と言うことができる。「思考は『内面的なもの』などではないし、世界の外部、言語の外部に存在するものではない」*4言葉こそが意味であり、他者が共有するのもその言葉の意味であるとすれば、他者によって解釈されたその意味こそがコミュニケーションにおいて重要になってくると言えるかもしれない。そう考えてみると、仮に彼が「僕の言葉を誤解しないで欲しい」と思ってみたところで、コミュニケーションにおいて彼のこのような意志は基本的には無視される。「言葉」を介して、相手に伝わった結果こそ、言葉の持つ真の意味なのである。

*1:R.Fitoussi作詞『Words』1983年

*2:メルロ=ポンティメルロ=ポンティ・コレクション』P.14 『表現としての身体と言語』1945年

*3:メルロ=ポンティ 1945 P.25

*4:ポンティ 1945 P.25