ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序(ネタばれなし!)

いったい何をどう評したもんやら。

……というのが、いきなり、率直な感想。とてもじゃないけど、こいつを評するような行為をやれるほど客観的になれない。かと言って、涙を流して「よくやった庵野秀明! 感動した!」というほど没入的にもなれない。とりあえず目の前に出された皿をすべてたいらげてみました、という感じで、全然消化できてない。けど、食前と食後で、確実に心境になんらかの影響を与えてるのはわかるのだから、不思議なもんだ。

とりあえず、見て回ってる範囲で、きちんとした「評」に出会えてない理由がなんとなくわかった気はする。

感想にしかならないんだけど、これはもう、「事件」なんだと思う。10年前に埋葬された、と思ってたものが目の前に現れた。それだけで十分、事件だ。だけど、ノスタルジーとかいう感覚とも違うんだよなこれ。

ひとつだけ、ちょっとだけ、評じみたことを書く。まぁ、他愛のないマニアックな戯言だ。

以前ちょっと何所かで書こうとしたことなんだけど、細田版「時をかける少女」と、「交響詩篇エウレカセブン」を、「エヴァ的なものを埋葬する作品=ポストエヴァ的なもの」という文脈で、僕は解釈していた。時かけはキャラ作画で、エウレカセブンは設定の随所で、ディテイルにエヴァ的な要素をふんだんに混ぜ込み、それを圧倒的なポジティブさでふっ切った。そんなこんななところが、「ポストエヴァ」と解釈できそうな気がしたのだ。

だけど、これ観ちゃうと、いや、正確には、これ観た後の自分の受け止め方を観ちゃうと、決してそうではなかったんだな、とジャッジせざるをえなくなってしまう。

時かけエヴァのキャラ作画の貞本氏はもちろん、エウレカの監督の京田氏まで、ヱヴァンゲリヲンプロジェクトは取り込んでいるという。もうここまで「ヱヴァンゲリヲン」が「ポストエヴァ的なもの」を内包してるとなると、時かけエウレカが持っていた、「エヴァっぽい」記号性なんて無意味になっちまう。いや、無意味なのは最初からわかってたことかもしれない。どう考えても、時かけエウレカのもつ「断片」は「コピー」にすぎないんだから。あれらは、所詮は、90年代お得意の、「差異の戯れ」だったんですよ。(ウェルメイドではあったけど)

そんなこんなで、もうあのキャラのあのシーンの表情がどうとか、色調がどうとか、CGとか、シナリオの変更とか、声優がとか、次回予告がとか、そういうディテイルに騒ぐ気が全く起きない。ノスタルジーにふける気もさらさら起きない。

一言で言うとなると……まぁ、10年前、目の前をエヴァが通り過ぎた記憶がある人には、必見でしょう、と。これも誰かの感想と一緒だな。けどほんと、そうとしか言えないよね。これでノットデッドな90年代が埋葬されるのかどうかは……庵野カントク次第なんだろうなぁ、やっぱし。

覗きたいような、そうでないような。けど覗かないといけないんだろう、な。