「月夜」

"つき"は、大事な秘密を知っている。そう、「正体」のこと。この季節になるといつも思い出すんだけど、誰にも言わないでいる秘密だ。きっと、誰に言っても信じてもらえないから。けど、"つき"は確かにそれを目の当たりにしたのだし、それが夢でも幻でもないことを知っていた。やがてだぼだぼの制服を着るようになって、その制服も脱いで、きついスーツを着て、また脱いで、と、幾つもの季節が過ぎて、今"つき"はこの場所に居るわけだけど、それでもそれがほんとのことだって信じている。本当のことを忘れちゃうことは、成長なんかじゃない。"つき"はそのことを知っている。

その秘密を知ったのは、"つき"が、画用紙に向かって、画ばかり描いていた頃だ。暗い部屋で、電気をつけるのも忘れて、毎日毎日"つき"は画用紙にクレヨンを塗りたくっていた。手は汚れ、時には服も汚したけど、それを咎めるひとはいなかったし、その時間だけ、"つき"は自由を感じることができた。

その頃になって"つき"は、12月の半ばにもなると、周りのこどもたちが色めきだつことにようやく気づいた。余り周りのことは喋らなかったけど、雰囲気くらいは誰にだって察知することができる(もっとも"つき"は、周りのこどもに比べて、余りに聡明だったのだけども)。だから、こどもたちの関心が、24という日付に向かっていることに気づくのも、そう難しいことじゃなかった。何で、その日が特別なのかなんて、全く理解できなかったんだけども。

"さなくろ"はほんとはいないんだぜ、と、いかにも頭の悪そうな(繰返すが、"つき"は余りに聡明だったので、周りのこどもの頭が悪そうに見えるのも当然のことだったのだ)こどもが自慢げに騒いでいるのが、視界の片隅に見えた。周りの、やはり頭の悪そうなこどもたちは、そんな彼になにやら不平不満を述べていた。よく分からないけど、彼らは彼らなりに、何かをかたく信じているらしかった。それが信仰と呼べるのかどうか、"つき"には全く理解できなかったけど。だって、この両の手で描く絵より信じられるものなんてこの世の中にないんだから。これ以上、私たちを夢中にさせてくれるものなんて、有り得ないんだから。

"さなくろ"というもののイメージを、"つき"なりに、頭のなかで描いてみた。周りの話を総合して組み立てるに、それは、ふんわりした赤い衣服を着ていて、まるまるとしていて、髭がある。そんなふうに、風貌については誰もが語れるのに、誰もその姿は見たことがない。だから、"さなくろ"は、とてもすばしっこい。高いところに昇る。そうしてどうやら屋根の煙突から家にやってくるらしいのだ。"さなくろ"は、遠くからやってきて、ひとめにつかず去っていく。だけど、そこまで想像したところで、"つき"は"さなくろ"の絵を描くこともなかったし、周りのこどものように、"さなくろ"に何かを祈るようなこともなかった。

だって、ひとつだけ確かに分かっていたから。"つき"のもとには、"さなくろ"はやってこない、て。

その日も"つき"は、ずっと絵を描いていた。部屋は暗くなったけど、誰も家にやって来る気配がなかった。お腹の虫も気にならなくなってきた。ただただ、"つき"は両手を動かし続けた。すべてはイメージなんだ。と"つき"は思った。"つき"を動かしているもの。それは学校でもなくて、ごはんでもなくて、おやつでもなくて、他のなんでもなくて、イメージなんだ。だから、今なんて要らない。と"つき"は思う。今も要らないなら、昔、も要らない。だったら未来も要らないな。"つき"には、絵があればいい。"つき"が描くものがあればいい。

かたん、と物音がしたのはそのとき。最初の音には"つき"は気づかなかったけど、2回、3回と鳴るにつれ、動かしている両手を止めるようになった(空色のクレヨンは放さなかったけど)。かたん、かたたん、という音。こんな時間に、ここに"つき"以外、誰もいるわけないのに。

"つき"は、ついに空色のクレヨンを床に置いた。空色のクレヨンで描いた青空は、暗い部屋の中では曇天に見えた。今にも、雨が降りそうな。今日くらい寒いと、雪がふったりするのかな、改めてその画用紙をみて"つき"は思った。けど今夜は晴れだったはず、たぶん。そんなことを考えていると、かたたん、そしてまたひとつ、音が鳴った。2階のほうだ。誰もいない2階へと続く階段に、"つき"は走っていった。おこられるかもしれない。けど、大丈夫、と"つき"は思った。イメージは問いかけている、何も悪い予感はしないって。何も間違ってない、それは正しいんだ、って。そして"つき"は、階段を駆け上がった。かたたん、またひとつ、音が鳴った。何かが、確かにいる。

そのとき、"つき"は気づいたのだ。24のつく日に、静かな晴れた夜に、屋根の上で"つき"を待つ何かの正体。そう、"つき"のイメージは語りかけた。何故かは分からない、けどそれは、"つき"のもとに現れて、そしてこうして"つき"を招いている。がら、"つき"は2階の窓をあけた。

かたたん、と音がした。何かが慌てている音だ。"つき"は、迷わず手すりに空色の手をかけ、裸足の足をかけた。大丈夫、と"つき"は思った。"つき"は、落ちない。こんなところで、落ちたりしない。もっと素晴らしい光景が、"つき"を待っているんだ。

屋根に足をかけてよじのぼったとき、"つき"が目の当たりにしたのは、一面の海原だった。いや、正確には、紺碧に塗られ、白のストライプで彩られた1枚の絵。屋根一面、1枚の絵。その上に、"つき"は立っていた。海の向こうで、かたたっ、と何かが走る音がした。"つき"はまっすぐ、屋根に広がる紺碧の海の上を駆けた。溺れそうだ、と"つき"はちょっと思って、それから迷いを切り捨てた。聡明な"つき"は気づいていた。"つき"が走れると思えば、まっすぐ走りきることができるんだって。怖くない、怖くなんかない。ただただ、追いかけるんだ。

ふわっ、と、視界を遮るなにかが見えた。鼻の頭がくすぐったい。ふと視線を下に落とす。そこに、熱を持った塊が、すうはあと息をしていた。ふわっとした、まんまるい体、見事な赤毛を纏っている。顔を覆う白い立派な髭。逢えた!と"つき"は思った。

"さなくろ"!

"つき"が叫ぼうとしたら、その塊は、すたっと立ち上がり、素早く紺碧の海原から隣の屋根へとダイブした。大丈夫、落ちない、と"つき"は思った。影は、すたん、と隣の家の屋根に着地し、まっすぐ一目散に月の昇る方向へと駆け抜けていった。そのとき"つき"は気づいたのだ。"つき"の視界をさっき遮ったもの。それは、しっぽ。赤毛に覆われた、ふわっとした、愛らしいしっぽ。遠く去っていくその影の後ろに、まるっこくしなやかに動くしっぽのシルエットは、影の駆け抜ける先を指し示すように、くっついていった。

なんて贈り物だろう、と"つき"は思った。ねぇ、"さなくろ"。空を見上げると、月がぽっかりと浮かんでいた。月って、こんな"つき"の近くで輝いてたんだ。月の光は屋根の上の海原を照らし、1本の真っ直ぐな、銀色の道をつくっていた。"つき"は、両腕をすっと広げて、細い細いその銀の道の上を歩いた。少し揺れているように見えるのは、海が波で揺れているからだろうか。

そのときね、と"つき"は呟いた。"私は、みんながハッピーになれる絵を描きたい、て思ったんだよ。"

もう"なみ"は静かな眠りに落ちていた。この話を、他の人にするのははじめてだな、と思い出して、"つき"は静かに微笑んだ。これは彼も知らない秘密だったのだけど、"なみ"にだけは知って欲しい気がしたのだ。"なみ"が大人になるまで覚えてるわけはないだろうけど、ずっと伝え続けたいと思う。これは、ほんとにほんとの話なんだよ。きっと、あの時、あのイメージを捕まえなかったら、"なみ"はここにいなかったのかもね。

そう呟きながら、"つき"は眠る"なみ"の頬に、そっとキスをした。そのとき、かたたん、と、上の方から物音がした気がする。けど、もう"つき"はその音を追いかけない。だって、もう部屋は暗くないんだから。もうすぐ、チャイムを鳴らすのを躊躇いながら、彼が帰ってくる。大きな包みを抱えて。子供部屋の済みに転がっている空色のクレヨンを見つめながら、"つき"は、おはよう、と大喜びで飛び起きる"なみ"の笑顔を想像する。イメージは、続いているんだ。と思う。あの大海原の先へ、もっと先へ、と。


なんとなくクリスマス掌編。メリクリでした。

2006/12/25 as