『Sing a song〜No Music No Life』-SINGER SONGER、Cocco。

何度も言ってるかもしれないけど「No Music No Life」て某外資系CD屋のコピーがきらいです。その黄色いCD屋はよく使うけど。結局なんできらいかといえば、なんか語の響きに甘ったれた感覚を抱くからなんですが。そのことばの裏にある、音楽依存症的な価値観がきっとダメなんだと思う。あっても人類の生命に別状はないけど、何故かそこにある。大体の「文化」と呼ばれるモノの価値は、そのこと自体に先ずはあるんだと思う訳だ。これも何度も言ってるけど。「音楽なんてなくても生きていける(石田小吉)」。

つまり何が言いたいかっていうと、音楽に命吹き込まれてるわけじゃなくて、プレイヤーやリスナーこそが音楽に命吹き込んでるんだって、ふと今日思ったってことなんです。そのことに少しでも多くのひとが自覚的になれたら、もっと音楽というものが豊かになっていく気がする。


今日、Tokyo Cantatというコンサートにある合唱団のメンバーとして出演し、終わったあと他の団体聴いてみたら、これがすっごい良かった。特に寺嶋陸也作曲の沖縄曲やった某団体のパフォーマンスは、リハ本番と2度みたけどほんと素晴らしかった。正直な話、聴き手としてこんなに楽しめた合唱の演奏会はじめてす。僕は音楽をホールの中に閉じ込めて、珍しい発掘物を品評するかのような、合唱演奏会のある種閉鎖的なスタイルって、(10年もやってきたくせに)身も蓋もない言い方すると余り得意じゃなかったんだけど、逆に「ホールで魅せることを極める」ために、シアターピース的発想も交え、様々な音楽をステージ上にとりこんで洗練させてく工程も必要なんじゃないか、とようやく思えました今日。そのためには国境だの言語だの踊りだの楽器だの関係なくボーダレスに、ジャンルレスに変化してこうとするのは大事なプロセスだと思う。その前提にハーモニーがあれば、あらゆるメディアは合唱という名で括ることができる訳で、その柔軟性という強みを活かさない手はない。なんて思いつきがあたま過ぎった次第。勿論、いきなりそこに辿りつくことはできないわけだけど、そこに近づけたらなぁ、と少しでも思えたことは収穫でした。


空間も時間も関係なく気づいたらそこにある。だからこそ音楽は奥が深い。No Music No Lifeというコピーはきらいだけど、僕はCoccoの歌うこの曲が、大好きなのだ。Sing a songという呼び声と、No Music No Lifeというフレーズは、実は間逆のことを言っているのかもしれない。だって、唄い手は歌って歌に命を吹き込み、音楽はその生命の上に、ゆらり漂うイメージなだけ、という訳で。