敷居値の住人(1)。

3月は26日、JASPMこと、日本ポピュラー音楽学会の例会に行って来ました。初参加で見知った顔が途中からみえなくなったこともあり固まってしまい、殆どオブザーバー状態になってしまいました。いやはや。久々に学問の現場を覗いて、その熱気の余り、変な方向に緊張してまいました。はぅ。ダメだな自分。

http://homepage3.nifty.com/MASUDA/JASPM/meets.html

と言う訳で、ちょっと遅れましたが、各発表に感じたことをば。つらつら。少しずつ。


1:「B'zサウンドに見るロックとポップの力学」(学士論文)

先ずは、「好きだから。」というピュアな動機を貫きとおし、芸大という場において、このような分析研究をやり切ったことに敬意を表します。そしてサンプルの数に圧倒された。その分析サンプル見たさに本文欲しくなったです。いやはや。すげー。B'zクロニクル出来上がりじゃないですか。

ただやはり、フェミニズム的な観点でずっと切り続けるのは限界あるよなーというのは感覚的に感じた。男性的/女性的という二分法がそもそも何処まで通じるかなんて、恐らくフェミニズム研究者からしたらまさしく議論の真っ最中で答えの出ない問題だろうし。調性で解釈する、という近代的ロジックで「未練たらたらな男性像」を歌うB'zという対象を扱ってしまったがためにそゆ罠に陥ってしまったんかなーとか感じつつ。そゆ意味では、新たな問題提起として重要な意味はあったと思う。J-POPにおけるフェミニズムと、二分法を軸とした調性解釈の可能性と限界と。この壁、乗り越えたら、面白いだろうなー。

後はピュアに、「作詞/作曲/編曲」+「曲先」という分業体制が確立している現在において、何処まで詞と曲(和声)とサウンドって、フェミニズム的な解釈を混ぜてする場合リンクするもんかなー、とか考えてました。松本って、稲葉心を軸にして曲造ってるのかなー?詞先なら分かりやすいけどなーその辺。とかとか、そんな。この辺りは、参考文献にもなっていた『恋するJポップ』という本が抱えている問題と似ている。生産される産業としてのポピュラー音楽と和音とことばの関係性。これはこれで1個論文かけてしまうくらいの重いテーマだと思うけど。特に、やっぱ「産業」「分業体制」て辺りで、ビーイングがどうたこうたとかつい考えてしまうんよな。

それと。もっともっとピュアな感想に「B'zのパクリは宮台の言う<高等な諧謔>とリンクするのかな?」というのが。これはつい気になる部分であります。まぁB'zのパクリについては、僕も論じるのを逃げたとこなので、何もいえませんです。B'z語りって雑音多そうだからやめました(それに大学的にも……むにゃむにゃ)。雑音云々を言うとミカン語りだってそうなんですけど。

ともあれ、これだけ色々詰まってると、本文読みたくなりますよね。やはり、こゆ発表て、いかに本文に興味を持たせるか、がキモですね。


2:「音楽文化を巡る再帰アイデンティティーの諸相:沖縄民謡歌手のライフヒストリーから」(学士論文)

質疑応答の最中に「勿体無い」というある方からのコメントがありましたが、全くのその通りでして。先ず、引用がなんだという細かいとこで言われるのが勿体無いし、言葉、単語ひとつであれこれ言われるのが勿体無いし、研究の成果のアウトプットの仕方が何より勿体無いと思いました。

どうせやるなら、自分語りになってもいいから、グウの音も出ないくらい、沖縄音楽への、コザの音楽への偏愛を語って欲しかった。自分が持っていないモノではなく、自分が持っているモノを結論にもってきて欲しかった。そしてその場にいる皆を巻き込んだ発表へと繋げて欲しかった。もっと言うと、指導教官の方にもそういう指導をして欲しかったです。ひとつの研究の可能性を摘むことの罪を、指導教官の方にはもっともって欲しいです。まさかそんなことはなかったと信じたいけど、大衆文化研究を「所詮は趣味の研究」と軽んじて見て欲しくはない。残念。


そゆ意味では、前半両氏の発表は対照的だったなぁ、と。強い動機が伝われば、論文の体裁なんかよりもっと何かが伝わるものですよ。それが伝わってくれたら先ずはいいじゃないですか、て思うのです。マスターやドクターの論文じゃないんですから、荒削りでも面白い方がいい。


続きは明日。眠いので。花粉症のクスリが効いてる。