追悼、SE。(1)

『SCUDELIA ELECTRO』-SCUDELIA ELECTRO

無人島にもってくならこの一枚、なんてありがちな言い方するなら、間違いなく真っ先に候補のひとつに挙がる名盤。いや、もう数枚持ってくけどね。折角無人島行くのに、一枚じゃ足りないじゃんねー。

なんて与太はさて置き。97年6月にリリースされたこの盤を僕は99年の5月に初めて聴いた。当時、活動休止後に知ったSpiral LifeのCDと『ワイン・チキン・アンド・ミュージック』は何故だかもっていたのだけど、スパイラルはともかくワイチキは基本的には最初ピンと来なかったのだ。『Miss』は好きだったけど、今ほど入れ込んで好きじゃなかった。実は、スパイラルの中でもどちらかと言うと車谷声が好きだった僕は、石田小吉がピンで歌ってるというのを余り想像できなかったのだろう。『PHOTOGRAGH』は好きだけど、それも周囲に車谷声があっての、ていう感じだった。……かと言ってAIRもうるさくて好きになれなかった。たまにポップな曲やるけど、アルバム通して聴くにはなんかうるさい音やってんなー。くらいの印象だった当時。だから、折角好きになったバンドはとっくになくなってる状態で、つまり、スパイラルとであったは良いモノのそこから先にいけなくて困ってたんだと思う、あの頃。そしてとある中古屋で、1300円ででてた『SCUDELIA ELECTRO』に手を出した。要するに僕は、スパイラルの続きを聴きたかったのだ。したら、続きなんて代物じゃなかった。

あえて言う。一言で言えば「心撃ち抜かれた」のだ。

一度目は、ただただ溢れるエレクトロな曲に圧倒され訳もわからず混乱し、2度目には石田の歌詩とヴォーカルの不可思議さに首を傾げつつ良いメロだなーと思い聴き、三度目になると、あれ?この曲こんな音だったけ?という風になって、ヘッドフォンを耳に押し付けて音の塊をかみ締めるようにして聴いてた。聴く度音の印象が変わるCDだったし、今も聴く度その感覚は変わらない。必ず何かを発見させてくれる良質エレクトロポップロック、それがSEの基本だ。そんなで、気付いたら手にとってる一枚になってった。今日も聴いた。やっぱりすごい。

この盤の核となってるのは「上昇/下降」のバランスだと思う。それを形成してるのが、SEの織り成す「SE(効果音)」だ。この盤の1曲目は地を震わすかのような、エマージェンシー(緊急事態)を比喩してるであろう分厚い上昇のSEから始まる。このSEに先ず吹っ飛んだ気分にさせられる。セカイの何処からこんな音が出てくるんだろう、と、そのたったひとつのSEが聴き手の心を鷲掴む。更に、ピコピコとした分散和音が音高の上昇を続ける。それが途絶えたら、打ち込みのシンセストリングスが「ド↑ソソ、↓ド↑ソソ、↓ド↑ソソ」(相対音表記)と上昇し続ける。一応曲はフェードアウトせずに終わるのだけど「ド↓シ↓ラ↓ソ↓ド」とわざわざオクターブ下のドまで下降して終わる。こゆ終わり方をしてると、終止はしてるんだけど、「また音はオクターブ上のドまで上昇してカタルシスを向かえてくれるんじゃないか。」という余韻を生み出す。しかしその余韻覚めやらぬまま、シンプルかつ豪快な打ち込みとギターリフの2曲目が始まる。つまりわざわざオクターブ下まで下降して「ド」に終止してるおかげで、次は上昇するんではないか、という昂揚した予感を持って次の曲になだれ込めるのだ。……要するに、「さよならノーチラス号」てのはすごい曲なんだ、てのを言いたい訳だけども。(他にも、上昇したまま下降せず余韻を残し音を断ち切り、昂揚感を維持するという手法が「Rocket Ride」や「200 miles away」で見られる。後は余韻を残す効果としてのフェードアウトが多いのがこの盤の特徴。とにかく、次の曲にお続く「余韻を残す」ことを大事にしていることに注意深く聴くと気付けると思う。)

1曲目からしてコレだから、続く曲曲もやはり凄い。特に吉澤瑛師のリミックスと石田小吉によるシンプルかつストロングなギターロックナンバーの融合による「Better Days-Album version」はすごい。吉澤がつくり出した派手で不可思議でかつポップなオーケストレーションからいきなり石田王道のギターポップへと転換する瞬間が突き抜けてるイントロの幕開け感といい、間に多様される「ぴゅーん」という風きりのような下降音のSEと底の方でびこびこうごめいているSEとの対比といい、ひたすら鳴ってる昂揚感溢れるギターのリフといい、Bメロの分散和音といい、一種のカオスな音が押し寄せてくるのだけど、中身はあくまでシンプルな美メロとロマンチックな歌詩を綴った「シンプルなポップミュージック」なのだ。圧巻はラスト。吉澤瑛師の付け加えた上昇感溢れるピコピコ分散和音。これが7分の長さに及ぶ曲の終わりに待ちうけ、やはり上昇をしたままフェードアウトしてくのだけど、終わった瞬間の、何かひとつの世界が終わり、だけど残響は頭に残っているという奇妙なカタルシスが生まれることになる。シングルヴァージョンでは味わえない、「上昇/下降」の織り成すドラマのカタルシスがアウトロに存在してる。それが丁度このアルバムの真ん中。ちょっとしたトリップ感を味わいながら僕は立ちすくむ

しかし立ちすくんでいる暇は無い。音楽は息をつかさず続いていく。「Rocket Ride」のリミックスを挟んで歌われるカヴァー曲「WORDS」なんて、上昇する電子音の洪水だ。何処にたどり着くのだろう(ZEROと書いたここか?)と、なんだか不可思議な気分で盤の中盤、ちょっとしたトリップ感を味わいながらその空間を僕はかみ締める。そして「i like pop music」と宣言、宣誓するインストを挟んで、最後を締めるのは「VEGA」という石田の遊び心溢れる名曲と、シンプルに良いメロにロマンチックかつメランコリックな歌詩を乗せたデビューシングルであり不朽の名曲「TRUTH」。この2曲でキレイにアルバムは幕を閉じる。

「VEGA」なんてSEの「上昇/下降」が織り成す世界観の極致と言って良いだろう。16刻みのシンセパーカッションと、流れ星を比喩したかのような下降音SEの組み合わせ。ひとつひとつのSEが上昇し下降する度、耳はそれに反応し、さまざまなイメージのグラデーションを脳内に作り出す。誰がなんと言おうと既聴感があろうとなんだろうと、「美しいメロディはどんなアレンジにも耐えうる。」という石田美学が結実した名曲だ。最後の「TRUTH」はシンプルに見えて実は、石田お得意のM7thのいなたさを利用した聴けば聴くほど奥行きのある曲だ。それ程音数が多い訳でもないのに奥行きある音に聴こえるのは、和音の構成の仕方がしっかりしてるからだろう。シメは「that's true」と音程が「レ↓ド」で終止しつつ、裏でパッド系の音が「ド、↓ソ↑ド」と鳴ってるのを忘れてはならない。ドに終止はするが、片方上昇、片方下降させることで、「曲が終わりました!」という感覚を強調してるのだ。これで「上昇/下降」の織り成すドラマは、ようやく終止する。というか、これがないと終われない。と、暫くCD放って流して置いたら、偉く景気の良いアッパーチューンが流れてきて、それ聴きとおすとまた脳内上昇気流が起きて、あのイントロを聴きたくなるんだよな。完結しながら完結しない。この感覚。だから何回でも聴ける。


そんなこんな。このアルバムの凄いのは、決して多くの音数は使っていないのに、ちょっとした趣向を凝らすだけでこれだけの音のドラマを作り出すことができてる、という点に尽きると思う。弦が生音ならそれでドラマチックになる訳でも、単に凄いサポートメンバそろえてバンドでやればドラマチックになるという訳でも、ヴォーカルの音がぴったり合ってて巧ければ(ファンには有名な話だろうけど、石田は自身の声については「ヴォーカリストじゃないしね。」と自嘲ぎみに語ってることが多い。僕的には偉く素晴らしいヴォーカリストだけどな。というか、MOTORWORKSでギター掻き毟るのもいいから、もっと歌ってくれ……。)良い音楽になるという訳でもなく、打ち込みというツールと、幾つかの生音(主にギターやピアノ)の組み合わせだけでも、和音感を大事にすることや、こういう「上昇/下降」のような感覚を埋めこむ仕掛けをひとつの美学に従い音を構築していけば、ドラマチックなCDが一枚造れてしまうのだ。勿論、石田の言う「良いメロディ」という大前提はある。石田の書く詩の何処か謎めいた魅力もある。けど、この盤に関しては、エレクトロなアレンジでロマンを語る、という、ツールとしての打ち込みの魅力が詰まってる。打ち込みは方法ではなく、ある世界観を構築するための手段なのだ。そんなことを思わせた一枚。何度だった聴ける。また新しい音を、イメージを、次聴いた時も、見つけるだろうから。SEは『SCUDELIA ELECTRO』。SEのことなら、SCUDELIAに聴け、という意味だ。こんなデビュー当時のコピーを口ずさみながら、僕はまた懲りずに、エマージェンシーを知らせるSEに思い馳せながら、CDトレイにまた、このCDをそっと載せるのだ。


(「追悼、SE。」は、SCUDELIA ELECTRO解散という事件を自分の中で整理するために造られた、SCUDELIAの生み出したアルバムを聴き返しては積み重ねてく似非レビュー群です。私的な追悼文章ですので、まぁ余り気になさらず。)