未だ見付け切れない音の葉を。

SCUDELIA ELECTROについては、週末追悼の文章でも書くかーなんて疲れた頭を首にぶら下げて考え中。今書く元気はとてもじゃないがないし、CDやらなにやら聴いてる限り、音楽に「終わり」て感じが全くしないのだ。全然生きてる。ぴちぴちしてる。聴けば聴くほど何が解散だ未だ演奏れるはずじゃん、てしみじみ感じてしまう。後期作品で枯れた、という意見は多い気がしないでもないけど、僕はそうではなくて、あれは一種の対レコード会社の戦略上の事情や、自身の引き出しや音楽観の整理のために必然的にそうなったと考えてるから、そう決め付けてはいない、と感じてる。例えば衝撃のデビュー盤『SCUDELIA ELECTRO』は確かに20世紀音楽飛行史に残すべき輝かしい航跡、即ち(僕的には)20世紀J-POP史に残すべき名盤中の名盤だったけど(中古屋行けば1000円でお釣でるけど……)、それと、例えば『ELECTROCKS』を比べてどうこう、という次元の話でもないと思う。まぁそれは後で書きますか。

更に余計なことを言うと、ポピュラー音楽屋は別段ゲージツ家ではないし、むしろどちらかと言うと属してる場所的には職人の世界に近いと僕は思ってる(だから音楽屋、て書いてるんだけども。余談。)。それゆえポピュラー音楽の世界で進化なんてあってもなくても良いと割と思ってるし、マンネリだろうがパクリだろうが、聴いた瞬間に「良いモノは良い」と聴き手として確信できる瞬間こそがホンモノだと割とピュアに思ってる。良い大工が造った家は、前の設計図を流用して造っていたとしても、良い家には違いないだから、家に棲む人間は素直にその良い家が当たり前のようにそこにあること、そしてそれを享受できること自体の幸運を感じれば良いんと思う、とかそんな発想かな。その中で、「あーさりげないこの欄間(今あるのか?)が良いよね。」とか「収納広くて使い勝手良いよね」とか「このレイアウトが心憎いよね。」とかデザインひとつひとつとか*1、細部の拘りに気付ければ更に嬉しいし、そゆ発見を惰性の中で見出してくのが職人の生産物に接するモノとしての一種の作法だと思う訳ですわ。探れば探るほど、そゆ細部の拘りに出逢える構築物、即ち、音楽。思えば、やっぱり「SE」は当初のコンセプトにある通り「職人の集団」だったのだ。

いけない。なんか十分追悼文になってる気がする。けどこれくらいで終われる程、SCUDELIAの構築物の造りは浅くはない。だって、家を解体します、と唐突に言われたとこで、未だ引っ越す気にさらさらなれないのだ。おととしにつけた柱の傷とか、壁のスーパーならくがきとか、やっぱり居心地良いその空間から、今自分が精神的に離れられるとは到底考えられないからだ。*2……やっぱり僕は、細部に拘り続ける職人仕事が、大好きなのです。今の仕事に飛び込んだ動機もそれだったのにな。何だかビミョーにズレてる気がするな。まぁしゃーないか。それは。そんなこんな。SEは、SCUDELIA ELECTRO


*1:それは大工の仕事じゃないか。まぁいいや。例え例え。

*2:と、書いて、ふと『ラヴレター』-岩井俊二を唐突に思い出した。岩井俊二表現者と言うよりかは、職人だよな。なんだかんだ。