蜜柑は何故に甘いのだろう。

以下、メモ的に。オレンジレンジさんこと、ミカンくん達のパクリ騒動については割と客観的に追いつつ取り上げてるつもりなんで、初見の方は過去ログを参照してみて下さい。

http://bounce.com/interview/article.php/1734?NOCACHE=t

http://www.bounce.com/article/article.php/950

今更だけど、菊地成孔氏のミカンくん記事。彼は、意外にも、と言ってもなんだけど、けっこ彼らの持つ「新しい感覚」的部分を買っている。

ひょっとしたら無意識かもしれないんですが、それにしたって凄い話です。スタイルとして流行ったら面白いですね、ダブル・パロディ。シングル・パロディがみみっちい印象であるのに対し、ダブル・パロディの技巧感といったら。俳句とか詩の韻律などの様式美さえ感じさせますね。ターンテーブルが二台になった瞬間。目玉も耳も鼻の穴も手も二個。人間工学的に、二つの物を合わせる。というのはある種の<完成>を意味する訳です。

菊地氏は、複数の引用の組み合わせを「ダブル・パロディ」(いや、ダブル以上ある曲あるんだけどさ元ネタ)と呼んで、それを「技巧的」と評している。僕が彼らの曲を「あー意識的にやってるサンプリングなのかなー。」て思ったのは彼の記事に負うところが大きい。ところが、まぁ、確信犯的には違いないだろうけど、「技巧的」であることに対し「意識的」には聴こえないよな気もしなくもないけど……。技巧的なパクリはさりげなくパクリであることをぼかし異化しようとするけど、余りぼけた感じしないモノね。

それに、そもそもパロディは「批評意識」を前提としてるモノなはずなんだけど、彼らがある対象を引用する際、そのことで何かを批評してるのかと問われるとその対象がどうも見えてこない。カッコ悪くパクリつつカッコつける自分たちを嘲笑うセルフ・パロディ?だとしたらとっくにフリッパーズを振り切って超越しちゃってるよな。だとしたらこれは凄いはなし。かもしれない。


ともあれ、実際彼らの話追うの疲れるし情報量自体が半端でないし(雑音多いし)やめたいんだけど、やっぱりパクリを語る上にはウォッチせざるを得ない対象だなぁという印象は強くある。そもそも彼らは何者なんだ?何者であるところの自らを表象したいというんだ?なんだかあらゆるモノを振り切ってしまってる感じがする。90年代が生み出した、突然変異のミュータントみたいな。それを語るには共通言語の獲得が必要か……ところで、ミカンて何語話すんだろうね?セックスマシンガンズに聴いてみようか?

とかなんとかて、真面目に深く考える程の対象かー?モテたいだけじゃん。て意見もたぶん根強いんだろうなぁ。僕もそう思ってますけどね笑。けど追いつつ肯定的に観るべし、てスタンスであります。やっぱフリッパーズスパイラルライフAIR氏はOKで彼らはダメ、てのは根拠に薄いと思う。菊地氏の言うところの「90年代ノットデッド派」の感情的な言い分よねそれて。(http://www.bounce.com/article/article.php/1727/2/)という訳で、敗走決まってるらしいですよ、どうしましょ、自分も含め。はっはは。