出鱈目の引用句に魅せられたケモノ。

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20050120#1106155126

まかせた(笑)。よろしく(笑)。

はぃ、まかされまし……て、あれ?え?えー?僕的には栗原さんに、こぅもう半歩切り拓いた文章を書いて頂きたいとかうっすら思ってたりもしたのですが笑。あれ?えー?

そんなで再びソツロンと当「asap@anex.」にアクセス爆発してびっくらな今日この頃であります。もう上梓して2年だってばー2年……。なんでカコのモノになってくれないのかな。いや、カコのモノに仕切れてないのは自分な訳だけども。だからこうやって取り上げられると、嬉しいのだけども。はっきり言って、このひとの文章に「Jポップ批評」で出逢わなければあのパクリの論文はなかった、ていうくらいの方からの前フリ付のトラックバックだ。浮かれない訳はない。けど動揺しない訳も無い。えー……あー……うー……。

あ、どうも、お初の皆様、ご挨拶遅れました。id:assaことasです。一介のしがないリーマンです。こんな駄文サイト(『asap.』)を5年半ばかしやってます。こんな論文みたいなモノの著者です。http://mmcs.edhs.ynu.ac.jp/~askaw/sotsuron/ 自分では論文と呼びつつ、論文ではないと思っております。

というか、まかされても、今んとこはid:assa:20050115#p1以上のことばは出てこないんですわ……苦笑いつつ。というのは、あの論文てのは、パクリという概念に潜む何か(仮に「せつなさ」と呼んでみようか。)に惹かれて止まないひとりの学生(当時)が、自分が好きな音楽屋さんらが実践してる剽窃行為や実際好きな剽窃を実践した曲々を弁護しようと思って書いた、非常に個人的な文章だった訳ですよ、実は、元々は。勿論、それを喜んで聴いてる自分への自己弁護も兼ねた、という意味で個人的な文章です。もう書いて2年も経ったんで吐きますけど。それがたまたま、色んなとこで色んなひとの目に留まって、それなりに「良い論文なんじゃない?」みたいな評価を得て紹介されて、何時の間に「パクリについてなんかむつかしいこと書いてある文章」てパブリックイメージがくっついて、パクリ糾弾板の終わりか何かに「はい糾弾おしまーい、これ読んでー。」みたいにリンクされるような、ある種の権威付けをされてしまった訳ですが。今回もモロにそんなケースですが。あはははは(よく分からない笑い)。

そんなこんなで、あの「個人的な」文章は最早「個人」の手を離れつつある、と最近、切に感じてきております。これもまぁまた個人的な話で恐縮なんですが、要はそろそろ、あの論文は1学生の趣味的文章として扱われ僕に回想されるモノのではなく、もっときちんと整備した、汎用性あるモノに改装され広く開放されるべきなんじゃないか、とかなんとか。元々は、WEB上に放ったら放ったまんま、反響あったらあったで鷹揚と眺めてエスケープして、パクリ語り界の伝説的存在になろうとか、妙な韜晦趣味を持って(今考えると、どうしてそんなこと考えたのか忘れたけど、なんか変な若気の至り方してて、おもろい。余談。)WEBに持ち上げたのでアレなんですが、そろそろ韜晦の時期は過ぎたなぁ、と。ようやく論文の客観的な評価も出揃って、固まってきた気もするし。

……と考えつつも、時間がないのと、考えがしっかりまとまってくれないのと、J-POP界の(特に産業としての)非道さに辟易してるのと、去年は著作権法改正(ニアリーイコール改悪)云々で世間の情勢がどたばたしてたのと、J-POPの聴き手のリテラシーがほんの一部にしか期待できないのとで、余り前には進めてない自分がいる訳ですわ。モチベーションと時間。片方に余裕があればもう片方はどうにかなるものだけど、どっちも中途半端にあってない状況なので、今話を振られても、個人的回想にしか浸れないのです。はぃ。という訳で、まぁ色々と考えてはいるのですが……考えるだけ……くだくだぐだぐだ……。

とか言いつつも、僕はid:ykuriharaさんとはまた別個のパクリ観みたいのを確かに持ってて、それをまた自己弁護するために(笑)何時かまた総括な文章書きたいなぁ、とは思っております。例えば、下記引用の部分、

おれ的には、パクリであるか否かの線引きって、近田春夫がいうような昇華の具合といった審美的な判断とは関係が薄くて、つまり作品としての出来がどうこうというのはじつはほとんど関係なくって、その表現主体すなわち作者本人の人物像に対する、受け手層の集合意識的な倫理的水準での価値判断が決定しているんじゃないかというのが仮説なんだけど

僕的には弱冠違うんですよね、その線引きは。というのは、そもそも<パクリ>とかサンプリングとかカヴァーを「そうきたか!」て手法で鮮やかにやられると、誰がどうこうとか言うよりもぅ諸手を挙げて喜んでしまう聴き手としての自分が居る訳ですよ。それは、勿論、作家性(と呼んで良いかはさておき)とは確かに不可分であり、表現主体とは切り離せないんだけども、決してそれだけではない、と。それは僕が<パクリ>語る上での大前提の価値観としてあります。

例えば、件の論文で取り上げたKICK THE CAN CREWを僕は特別好きではない。けどラジオからあの「達郎の」カノンのイントロが聴こえた瞬間にタイトルと表現主体の名を聞く前に「やられた!」と思ったんですわ。勿論、そこにはHIP-HOPとサンプリングという関係も絡むけど、やはり参照元とその音楽そのものの持つ関係性と差異みたいなモノに繋がっていくと考えた訳です。で、まぁ物語消費論とくっつけて、だらだらと書いて見た訳なんですが。はぃ。それこそ近田春夫的な文脈なのかもしれませんが。

もう1つはっきり言えるのは、僕に近い世代が「洋楽を元ネタにしたJ-POP」を「オリジナル」と認識して消費している部分がある、という仮説だったりします。これは「渋谷系以前に熱心に音楽を消費してた層/渋谷系以後に熱心に音楽を消費するようになった層」で世代的な線引きがある程度ある、と思うのです。要は、先に何かを引用した音楽があり、その向こうに「元ネタ」がある、という価値観。これは誰が歌ってるからどうこう、というよりも、先にラジオなりなんなりで流れた曲があって、その曲を誰が歌ってるかを知って、今度はその元ネタが何かを知る、ていう逆転現象が起きてて、それが元になってる気がしとります。それて「J-POP」という自己完結する価値観が生まれて、洋楽を聴かない洋楽ぽい和製ポップミュージックを消費する層が厚くなってきたことに起因してるのかな、と。僕が切り出したい<パクリ>観の核て実はその部分であったりして、それを切り出すにはどうしたらよいのかなーとか日々(という程でもなくたまに)考えてるとこだったりするのですわ。はぃ。その切り出しの手法のひとつが、東浩紀大塚英志の理屈の拡大解釈だったりしたのかな、と。後から思う自己総括であります。結局、そいうリスナーにとっては、人物像やら人徳やらて、後付けだったりするんですよ。割と。たぶん……。(誰か、このあたり弁護のトラックバック送ってください。特に、90年代後半J-POPの呪縛から逃れられてない方々……笑)

そんなで80年代を知らない90年代リスナーは己の無知を棚に挙げ、鞭を打ちながらシコウに励むのでありました、とさ。あー、結局長文になってしまった……。誉められたりおだてられたりすると、元来お調子者なので弱いのですわ。はぃ。そんなで、……やっぱid:assaごときにゃまかせられません、て何かの折に、<パクリ>の文章書いて下さい栗原さん。笑。