美女と白昼夢。

『ハウルの動く城』-宮崎駿監督、鑑賞。

賛否両論(どちらかと言うと後者優勢)が飛び交っているのは承知で観にいった。したら、案外、というかそれなりに楽しめた。やっぱり「画を描く」という点でまず、宮崎は鑑賞者を楽しませてくれる。そいう下地があるから、とりあえず身を委ねてあれこれ考えずに観てみようじゃないか、という態度にさせてくれる。そうなったら闇の密室の中で展開される映像と音楽に身を投じればよい。あれこれ批評的なことなんて考える必要は無い。そんなことは映画評論家とかそいうひとがやれば良い話だ。とか言いつつ漫画アニメ研究者のドイツ人の研究室にいたのは何処のドイツだ?けど僕がやったのは音楽研究だ。文句あるか?

以下、ネタバレ警報も多少あるので、観に行くつもりがある方は観ない方向で。

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個人的には、「あ、これは<夢>なんだな。」という実感で映画を眺めてた。夢とは、つまり現実を投影する無意識の作り出した表象である。そこにあるものは全て何かのメタファーであり、何かを示唆している。(そんなこと思うの僕くらいかな、て思ってたら、後でパンフを見ると冨士眞奈美がそゆ「夢」という観点から書いた一節を書いてて、似たようなことを思いつくひともいるもんだなーと思った。)

例えば、唐突に顕れるメッセージ性の強い台詞、そして「愛国主義渦巻く世界での戦争」という舞台背景は、2004年、もうすぐ2005年になろうとしてる現実世界への(宮崎なりの)メタファーであるという気がする。姿をどんどん変える少女(お婆さん)、もしくはハウルの姿は内面をすぐに自己の姿に投影できる「夢」の為せる業である気がする。一見脈絡のない物語の流れは、常に断片的でストーリーの一貫性に乏しい「人間の観る夢」まさにそのものだ。しかしその中に象徴的な何かが常に潜み、観衆を罠にかける。映画の中の彼らが夢を観ている。そして観衆である僕らも夢を観ている。そんな錯覚を覚えた。

この映画が「夢」であることを示す象徴的なシーン。それは少女がハウルの引越し後、元々住んでいた家に帰ってきたシーンだと思う。de ja ve の感覚とも解釈できるし、夢から現実への回帰、もしくはその逆とも解釈できる。そしてその見覚えのある場所はもうかつての町の帽子屋ではなく、ハウルの「家族」の隠れ家なのだ。僕は夢の中で「この光景何処かでみたことあるな」もしくは「いつかの夢でみた光景だな」という感覚を多々味わうので、そゆ感覚でそのシーンを眺めてた。その場所は帽子屋に生きながら、帽子屋を抜け出したかった少女の観た心象風景だったのかもしれない。なんて思ったり思わなかったり。(そもそもその場所に迎えにきて「お帰りなさい」と言った母親は、原作においてはだけど、実の母親ではなかった。あれも母という幻想が織り成した少女の幻想なのか……。)

……というか、fantasyとかてそもそも「白昼夢」とかそいう意味なのね。だからこそ宮崎はファンタジーという素材を提示されたか見つけ出してきたときに、徹底して夢を見せようとしたのだろう。ハリポタやディズニーや「純愛系エーガ」とは違う方法論で。様々な象徴を、メタファーを散りばめながら。

やはり面白いと思ったのがこのメタファーの使い方だった。特に、やはりこれも誰かがパンフに書いてたけど気になったのが、「髪を切る」というメタファーだ。そして、あのとき少女が見せた表情が、映画を通じて最も美しかったと思う。夢の中で、鮮烈に残ったシーン。「秘密の庭だよ。」そんな台詞と共にハウルが帰ってきた一面の花畑なんてのもそうだし(Go back to that Garden and keep laghing to yourself......?)、ディズニー辺りが多様してきた例のメタファーもそうだけど、この映画を通じて最も優れたメタファーは、やはり少女ソフィというメタファーなのだろう。

そんなこんな。脈絡のない文章になったけど、夢は観るものに鮮烈な印象を与えるものだ。そして、夢辞典とか夢判断とかでそれが何を示すのか現実と照らしながら探すのだ。セカイという無意識と宮崎の作家としての無意識が融合し、それを投影した表象。僕はハウルの動く城をそう解釈することにした。というか、そう解釈するのが一番面白い気がした。素直に物語としてみるなら『千』や『ラピュタ』の方が優れているのは明らかだ。けど、だからこそ違う土壌で宮崎は違う画を見せたかったのだろう。物語ではなく、これは夢だ。正夢と白昼夢を往復する、ちょっと奇妙で面白い、他人にねぇねぇと囁きかけたくなるような夢だ。まさしく、この時代に相応しいじゃないか。We have a good dream !!


余談になるけど、音楽が良かった。夢に音楽は欠かせない要素なのだけど(少なくとも僕にとっては)巧い具合に響いてくれたんじゃないかな。主題歌は木村弓の再起用というのが、タイアップじみててなんだかアレな気分だったけど、谷川俊太郎作詩なら、まぁ許す。