斜めに浮かぶ下弦の月は今日も凪ぐ。


さいたまに紀伊国屋書店がやってきた!

て訳で、鈍った身体の運動がてら、久々に与野駅から大宮まで歩いてみたら、なんだかCOCOONがOPENだなんだと中間点のさいたま新都心で大騒ぎが起きてた。要は映画館+ショッピングモール(シネコン、て言って良いのかな?)がさいたま新都心にできました、て話。川崎のチッタよりはシックさに欠ける、海浜幕張よりかはずっと充実してる。ぱっと見そんな感じ。想像したよりひとが多くて、紀伊国屋で『京ぽんの本』買ったらすぐ引き上げた。なんだあの人数。新都心はあんな街じゃないぞ。

新都心の開闢以来ずっと見つめてきた僕にしてみれば、新都心はそもそも無人を前提にした街だった。真新しいのにひとがいない。スピッツの歌うところの「君と遊ぶ/誰もいない市街地」とかそんな感じが好きというひとことですまないくらい好きで無駄に通いつめ、動かないエスカレーターを駆け上ったものだった。駅ができて、最初は近くの高校のひとしか殆どいなかった。それがまず官庁が入って通勤のひとが来るようになった。そしてさいたまアリーナが機能しだしてモー娘。だの格闘技系だのくるようになった。時には某教団の集会すらアリーナでやるようになった。ひとが圧倒的に増えた。寂寥から混沌へ。

それでも新都心独特の照明ワークと、シンメトリックな構築美、細部の(無駄なまでの)拘りは僕を魅了し続け、イベントのない静かな日々はやはりそこは安息の場所の他に変わりなく、社会人になった今でも、帰省する度、ぼちぼちと散歩してたりもしてる。数人にしか教えてない特別スポットもある。あそこは新都心における照明+シンメトリな美的構造の極致なのだ、と個人的には思うあの場所のこと。

それがそれが、新ショッピングモール+シネコンであるCOCOONの登場によりどうだろう。過剰な光と喧騒が新都心の造形の絶妙なバランスを崩した感が否めない。いや、明るさ/喧騒から安息の照明スポットへ、というギャップを利用すればまぁ許容できる範囲かもしれない。けど、あんなの僕の知ってるさいたま新都心じゃない。誰の許可を得てあんなモノ作りやがった(暴言)。

確かに街に文化を根付かせようとするなら映画館と書店は必要かもしれない。けど映画館はもっと身の丈あった(例えば川崎シネチッタや恵比寿みたいな)感じで良いじゃんか。ここは川崎駅前の湿気た駅ビルじゃないんだ(駅前のビルだけど)。ひとつの「空間」なのだそれをなぜ理解らない。ブランドモノなショッピングは大宮にでればできるじゃんか。そして何より、肝心の書店の品揃え、結局川崎の紀伊国屋より悪いじゃんか。昔からある焼肉屋と大阪屋が運営してる書楽の方がずっと面白い書店じゃないか。(だって未だに工作舎『遊』のバックナンバー置いてるのだ。て、それが面白い基準?)

それにさ、これが肝心なのだけど、良いライブハウスないすよ、さいたま。大きなハコだけ揃えればよいてモノじゃないよ。もっと、周囲と調和した感じで徐々に必要なモノ増やして成長すらいいんだって街なんて。以前誰かが新都心を「箱庭」と称したものだけど、箱庭の中に箱庭新しくつくっても仕方ないじゃん。箱庭には箱庭の美学があるべきであり、それはひとつの箱庭で完結すべきだった。なんてもったいないことしてくれたんだ……つかひと多すぎ……。

まぁ誰がなんとわめこうが、街は動くし、ひとは動き、波はすれ違うのね。寂しくもあり、せつなくもあり。それでも「街」から見えた藍と橙の混じる空の上の下弦の月は、とてもとても、街の無駄なまでの近代性に融和していたりして。とどのつまり、変わるものは変わるし、変わるべくして変わるものもあるしその逆もあるし、それでも変わることない部分を信じることができれば、街と共にずっとずっと歩き続けられるんだと思うんよ。つまりはそんな感じ。

まぁ、ひとことけやき広場の中心で、さいたま新都心が好きだ、て叫べば済む話ではある話なんだろうけど。