far away so close to you...

コーラスワークが巧くいってる音楽を聴くと、えもいわれぬ快感が鼓膜を通して身体を貫く、そんなこんななコーラスフェティな僕なんです。普段オトを聴きながら歌うとき、僕は、主旋を歌うのではなく、コーラスを歌う。コーラスが音源に入ってなくても、適当にハモる。これは自己満足の領域でやってることなんで、正確にオトが重なってるかてのは大した問題ではない。てのは相対音感がすっかり衰えてる人間の言い訳ですが。この辺りのシコウは元々合唱をやってる人間だったりするのと、ピアノでコードを叩くのが趣味な人間だったりするとこから形成されたんだろうなぁ。合唱部でカラオケ行って最初に驚いたのが、フツウにコーラスを皆がアドリブで歌ってることだった。

さて置き、このハモりたい、という欲求て言い換えれば、声を重ねたい、て欲求てこととされる。ハモネプ辺りで誰か言ってそうじゃないか。「声を重ねるのてキモチイーよねぇ。」まぁ実際、これは古来よりある欲求のひとつだったりするとされる。コーラスが単旋律でなく、違う音をとって同じフレーズを歌うという手法をとるようになったのは、教会音楽の発展から。元々は、ベースの音を指揮代わりに神父だか牧師だかがとって、その音にコーラス隊が音を重ねるようになったのが、和声、てやつの起源と言われてる。最初は単旋律でやってたんだろうけど、そのうち四度の和音(ドとファ)てヤツが発見され、それでミサを歌うのがちょっとしたブームになったらしい。その後、今の和音の基本とされる三度(ドとミ)の和音が発見され、更なるブームをもたらし、いろいろなそんなこんなを経て今に至る。ゲオルギアーデスてドイツ人の本を講談社の青い文庫辺りで読むとその辺りが難しく執拗な分析と共に書いてあるので興味あればれっつちゃれんじ。

けど、こうやってハーモニーの歴史を書いててふと思うのだけど、これて声を重ねたい、という欲求とはちょい違うんじゃないか。と。

だってそもそも四度とか三度とかて発明された当初は「きもちわるい音のぶつかり」でしかなかった訳で。究極の調和を目指すなら同じ音とか、オクターブ上や下をとって延々演奏ってれば良かったはずで。それでじゃぁひとはあえてその慣れないうちは気持ち悪かった和音で音楽をやるようになったのか。ゲオルギアーデスは色々と言語との関連で理由を述べているけど、結局のとこ、それは「反発したい」「ぶつかりたい」て欲求に拠るんじゃないか、と。

多声的である、てのは、つまり違う声が違うオトを歌える、ということを意味する。同じことしか歌っちゃいけなかったのが、違うことを歌えるようになった。そしてその結果声と声がぶつかることになった。そんなこんなで生まれる衝突への快感が、和音の隆盛に繋がっていたんじゃないだろか。

実際、調和と衝突て紙一重、陳腐な喩えを使えばコインの表裏みたいな関係だと思わなくもない。全く同じ存在が重なればそれは「調和」というよりかは「同化」だったりする。異質な存在が衝突するからこそ、同化ではない何かが生まれる。

例えばスパイラルライフを聴くがいい。車谷浩司の細い声と石田小吉の伸びる声は全くの異質であり、実際メインボーカル変わると曲の色も全く変わる。しかしひとたびそれが重なると、絶妙な感覚が生まれる。声は確かに重なり、調和している、だけどそれは同時に分裂しているんだ。このハーモニーは、完全に重なることなんて一生ないと悟りきってるからこそ、出せるオトなんだと思わなくもない。僕らは全く別の存在であり、別の道をすれ違って歩いてく。

『Raspberry Belle』を聴くと良い。「ほら見て/凍る言葉の海で/解け出す全て/本当のこと」という裏でかすめるコーラス「i can hear your voice...call my name...」凍る言葉の海から溢れることばを聴こうとする主体は、そこから遠く離れた自分の名前を呼ぶ声を聴き取ろうとする。けど、結局その声は届いたのだろうか?その声は結局一瞬耳に届いたものの、「風と消えた」んじゃないだろうか?そのコーラスの掛け合いが語るのは、分裂するふたつの主体の、一瞬の衝突な気がする。その衝突が、何でか美しさを生むし、その反発感にイメージはより喚起される。

例えばMOTORWORKSを聴くがいい。『Speeder』を聴くと良い。黒沢健一が前向きな声で疾走感溢れるフレーズを歌い、石田小吉のコーラスがそれに重なってくる。乾いた声の黒沢健一の声と湿感のある石田の声は全くの異質。しかもふたりとも遠慮なく自分の声を前に飛ばしている。その声と声のぶつかりは同化と言うよりかは衝突である。しかしその衝突から生まれる熱が、この曲の熱さを助長する。すると曲全体のイメージは統一感をより強くする。もっと速く、もっと熱く。前のめるふたつの声がまるでこう語りかけるようだ。i can hear ! i can hear ! オトが鼓膜を震わした一瞬の情動が、そのコーラスの掛け合いによりもたらされるようだ。

思えば僕らは重なりたい、て簡単に思いすぎじゃないだろうか。そうじゃない。もっと別の方向を歩いてって、突っ走っていいんだ、と何となく思う。それでも僕らは、一瞬すれ違って、小さなヒバナを生み出すんだろうから。そのヒバナは同化という幻想よりか、ずっとずっと、儚くも美しい。その美しさとこそ、僕らは調和すべきなのかもしれない。なんて。